海軍は昭和15年(1940年)末(昭和16年初頭とも言われる)に南方水上基地用の水上戦闘機を急遽採用す
ることとし(当時開発中だった
15試水戦が南方進行作戦
の開始に間に合わないと判断されたため)、
九五式水上偵察機な
どで小型水上機の製作経験を持つ中島飛行機に対して、
零式艦上戦闘機をベースに水上戦闘機の試作を指示した。
中島飛行機への発注は三菱が当時零戦や
一式陸攻の改修・
生産に手一杯だったことも影響している。
改造試作指示から約11ヶ月という短期間で試作1号機が完成し、奇しくも真珠湾攻撃の当日に初飛行に成功して
いる。昭和17年7月に制式採用され、二式水上戦闘機と呼称されるようになった。
発動機やプロペラ・武装などは零戦そのままであるが艦上(陸上)運用に必要な装備(主脚や着艦フックなど)は
廃止され、代わりに大型の単フロートと補助フロートが装備された。単フロートには燃料タンクが内蔵されており、
フロートによる空気抵抗増加に伴う航続距離低下を補った。また重量バランスの変化に対応するため垂直尾翼面積の
増加や胴体後方下部に安定ひれ追加などが行われた。
当時各国でも陸上(艦上)戦闘機の水上機化は計画されていたが当機ほど成功した機体は無く(米国の
グラマンF4Fや
英国の
スピットファイアを改造した水戦など
は酷い出来だった)、実用化された水上戦闘機の中でも当機は世界有数の性能を誇る機体であった。
重量増加や空気抵抗による速度低下はあったものの世界最高水準の格闘戦闘機である零戦から受け継いだ運動性は良
好で、アリューシャン列島やソロモン群島などの孤島にある水上基地の防空任務に活躍したが、日本の敗色が濃くなり
戦線が縮小されるに従って水上戦闘機の必要性が薄くなり、昭和18年に生産は終了した。