ソロモン海戦

凄烈海戦の序曲

 ソロモン群島はアメリカにとって、ハワイと濠洲を結ぶ連絡路確保のためには、死守すべき最期の一線であった。これを全然うしなったのでは濠洲に 対する連絡路が、帝国海軍の不断の驚異の下にさらされる。
 そして、やがては濠洲を落日英国の遺産としてそっくり頂戴におよぶつもりが、文字通り獲らぬ狸の皮算用に終わるのは明白である。濠洲をうしな うことは、すなわち、大東亜戦争以来の相次ぐ敗戦に追いつめられた、太平洋に於ける戦略態勢の不利を挽回する希望を、永久に喪失することを 意味する。
 もちろん、ソロモンに対する反撃が、単に濠洲防衛の最後の一線を守るという消極的意味だけに出たのではなかったろう。かつ、濠洲を足場とする 全面的対日反攻といっても、それは遠い将来のことに属する。
 ソロモンの反撃に於ける、アメリカの最大の戦略的意図は、ソロモンを第一段の足場として積極的な攻勢に出ることであった。
 ソロモンを奪回することによって、基地飛行機の制空権下に艦隊決戦を有利に展開し、先ず少なくとも西南太平洋の海上権を回復する。次いで 自らの好む時期、好む方向に対して、同様に逐次反攻の手をのばしてゆくことを夢想していたとみられる。
 ソロモンからビスマルクへ、さらに赤道を超えて我が内南洋に進み、結局のところ直接我が本土を脅かすと同時に、フィリッピンを衝く。また、ビスマル クからニューギニヤを経て東印度諸島を奪還する...これがアメリカの抱いていた勝利の白日夢であったろう。或いはその可能を確信していたかも知 れない。
 要するに、飽くまで太平洋の、驕慢極まる支配者たろうとするアメリカの、身の程を知らぬ野望が、濠洲本土防衛の最後の一線を死守しなければ ならぬというギリギリの意欲と相まって、我が南の最前線であるソロモン群島の、更にのびきった最突端、ツラギ及びガダルカナル両島に対する昭和十 七年八月初旬の反撃上陸となって現れたのである。
 それと相前後して、北はアリューシャン、東はギルバートにもそれぞれ反撃作戦に出てきているが、このソロモンに対するものが最も大掛かりで、最も 本格的であった。すなわち、今次戦争以来はじめてアメリカがとった全面的攻勢の主力をソロモンに向けたわけだが、その理由としては概ね以上の戦略 的企画があったとみることが出来る。
 かくして、以後約半年の長期間にわたり、ガダルカナル島を中心としてソロモン海域に繰り展げられた言語に絶する悽愴激烈な死闘がはじまったので あった。
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