化学兵器(毒ガス)

「輜重輸卒が兵隊ならば〜、トンボちょうちょも鳥のうち〜♪……と、くらぁ」
 一見のどかに見える山地の舗装されていない道を、背に荷物を載せた駄馬を曳いて進む日本軍兵士の一団が 居た。ご機嫌な調子で都々逸をうなっている人相の悪い男が隊長格であろうか。

「頭(かしら)ぁ、そんな士気を削ぐような歌をうならないでくださいッスよぉ」
 副官らしき下士官が隊長格の男につぶやく。情けない物言いであるが、彼も目つきの鋭い危険な香りのす る男のようだ。
「うるせっ……それに頭って呼ぶなって言ったろうが。オレは部隊長様なの。少尉殿と呼べってば」
 人相の悪い男は副官に向かって怒鳴る。
「少尉殿って……正規の士官じゃ無いじゃないッスか……ごろつき共のまとめ役ってことでの暫定階級でしょうが」
 副官があきれ顔で言う。どうやら、この輜重部隊はごろつき兵の集まりのようだ。
「そりゃぁよ、オレだって娑婆に帰ればヤクザの若頭だぜ。オメェだって名の知れた博打打ちだ。兵隊共だっ て喧嘩や盗みで何度も捕まってるクズばかりだ。兵隊のフリをしろったって無理な話だぜぇ」
「そのクズ共を『地獄のような牢獄で何年もの刑期を勤め上げるか、それとも戦地で一年間仕事をするか』って選択 肢を与えて大陸戦線に送り込むんだから、軍のヤツラはその上を行く悪党ってことッスね」
「おうよ。その甘言に載せられて大陸くんだりまでノコノコやってくるんだからクズは何処まで行ってもクズ なんだよなぁ。カカカッ」
 隊長格の男は副官の言葉を受けてダミ声を張り上げて笑った。
「でも最前線でドンパチするのかと思ったら、こんな輸送任務ばっかじゃないッスか。輜重兵なんて兵隊の数にも数えて 貰えないッスよ」
「いいんだよ。牢獄にいれば何もできねぇが、戦地とは言えここなら好きなときに飯は食えるし、うまくすれば 女も抱ける。敵を殺すしか楽しみのない最前線よりも、コッチのほうが旨みはたっぷりだ」
「そりゃまぁ、頭のように荷抜きやってりゃ旨みはあるでしょうけどねぇ。女だって横流しした物資の代金代わりに 頭が無理難題を要求したからじゃないッスか」
「相手も納得してんだからいいんだよ。英語でいうところのギブアンドテイクってやつだ」
「頭は顔に似合わずインテリなんだから……敵性語はマズイッスよ」
「あ〜、いちいち細けぇんだよオメェはっ!」
 まるで漫才のような遣り取りであるが、話の内容は物騒だ。

「今回は荷抜きするような物資じゃ無いッスねぇ。『お茶』ッスよね?そのワリには重たい入れもんだけど」
「ば〜か、正直に中身の話を信じるな。『茶っ葉』をこんな厳重な容器に入れるかってんだ」
 隊長格の男は、そう言いながらハルピン駅で物資を引き渡した爬虫類のような冷たい目をした少佐の顔を思い浮か べた。少佐は『大事な”茶”だからな。無事に師団司令部へ届けることを最優先としろ』とだけ素っ気なく命令したのである。
「師団司令部に届ける『茶』だろ。そりゃぁお茶じゃなくて般若湯だ。師団長様が宴会でもするんだろうぜ」
「般若湯って……酒ッスか?そりゃまた情けない物資輸送任務ッスねぇ」
「ま、どっちにしろ珍のヤロウも食い物とか酒とかはイラネェって言ってたし、今回は荷抜き無しだ」
「珍のヤロウッスか……ヤツは取り引きの相手として信用できるんッスか?」
「信用なんかできるかよ。名前からして珍竹林(ちんちくりん)だぜ。偽名も偽名、ふざけたヤロウだ。だが金払いは いいし、旨いモノも喰わせてくれる。女を寄こせと言えば女も都合つける。それで充分だ」
「結局、双方で食い物にしてるってことッスか」
「それがヤクザの取り引きってもんだ。使えるヤツは使い、使えなくなりゃバッサリ切り捨てるってな」
「それで横流しした鉄砲や大砲が何処に向けられてるか考えたら寝覚めが悪いッスけどね」
「ちげぇねぇ。ガハハハッ」
 どうやら、この部隊は兵器を敵である中国人へ横流ししているらしい。とんでもない話である。

 山道が開け、小さな集落が目に入ってきた。集落の入り口には仙人ヒゲを生やした老人がしゃがみ込んでいる。
「頭、あそこの村で小休止と行きましょうや」
「そうだな。シケた村だから何も無いだろうが、村長(むらおさ)の家なら喰うモノぐらい有るだろ」
 副官は部下を連れて老人に村長の家のありかを訪ねる。老人はふるえる指先で土塀に囲まれた一軒の家を指さした。
「頭ぁ、あの家らしいッスよ〜」
「おうっ、それじゃあの家を目指して全隊進めってな。それと頭って呼ぶな!」

 村の中は閑散としており、老人が数人とやせこけた鶏が数羽、それに死にかけの山羊が一頭居るだけであった。
「なんか、えらい寂しい村ッスねぇ。女子供も居やしねぇ」
「男共は兵隊に取られちまったんだろうが、女子供はどうしたもんかなぁ。こりゃ他の部隊のヤツにヤられた後かも しれんぞ」
「ヤられたって、略奪ッスか?三光作戦だったら、もっと徹底的にするッスよ。家なんて焼き尽くすんだから」
「それもそうか。ほら、村長の家に着いたぞ。村長を捜し出して食い物を持って来させろ」
「へいへい……まるで山賊みたいッスね」
「山賊みたいじゃねぇよ。畏れ多くも陛下の赤子たる皇軍兵士を山賊呼ばわりするなってば」
「あ〜、頭が言うと陛下って言葉も薄っぺらく感じるッスよ」
 苦笑しながら副官は土塀の奥へ入っていった。隊長格の男も一隊を率いて門をくぐり庭に入る。

 バタバタと副官が戻ってきた。
「か、頭っ!村長は居ないけどヤツが居ました!」
「ヤツってなんだ?蒋介石か周恩来かぁ?カカカッ」
 隊長格の男は自分の言ったことに自分で面白がっている。
「いや、そんな大物でもなくて……珍のヤロウッスよ」
「あ〜、珍だぁ?なんでヤツがこんな村に居るんじゃぁ?」
 そこに奥から、黒眼鏡をかけナマズヒゲを生やした、いかにもアヤシイ中国人が出てきた。
「おや、カシラも居るアルか?珍しトコで会うことヨ。今日は何カ、良いテッポでも貰えるアルか?」
「な〜んで珍がココに居るんじゃ?そっちの方が珍しいわい」
「アイヤ、ワタシの家は此処アルね。ハルピンの家は仕事場アルよ」
「偶然ってのはあるもんッスねぇ」
「とりあえず、なんか喰うモノねぇか?」
「判たアル。少し待つヨロシ」
 珍は奥へ戻っていった。
「よ〜し、それじゃここで小休止だ。全員楽にしてろ!……オメェは珍を見張ってろ」
 隊長格の男は部下にそう告げ、副官を家の奥へ追いやると自分も小銃や背嚢を降ろし、どっかと座り込んだ。

「お待たせしたアルよ。たいしたモノは無いアルけど腹一杯喰うヨロシ」
 奥から戻ってきた珍は、大鍋一杯の粥を持ってきた。運ぶ物資のみ渡され、自分たちの持ち物などほとんど無い 兵達は鍋に群がり、粥をむさぼる。輜重部隊は荷運びが重要視されるため運搬する物資以外に極力重量物となるものは 持たされず、自衛のための武器でさえ隊長格の男が持つ小銃と拳銃だけなのである。
「カシラも食べるアルよ」
 そう言いながら珍は椀を持ち、隊長格の男を手招きする。
「おうよ……」
 隊長格の男は背嚢と小銃をその場に残したまま珍へ近づく。
「そういえば、あいつはどうした?」
 副官の姿が見えないため、隊長格の男は椀を受け取りながら珍に尋ねた。
「副官さンなら、戻て来ないアルよ」
 にやりと笑いながら珍は右手を挙げた。

 珍の合図に応えるように土塀の外から中国軍の兵士がなだれ込んでくる。粥に群がっていた日本軍兵士は為すすべ もなく中国軍兵士が放つ銃弾に打ち抜かれていった。
「なんじゃっ、珍!オメェ、俺等を売りやがったなぁっ!!」
 激高して腰のホルスターから拳銃を抜く隊長格の男。しかし、その拳銃を珍に向ける前に中国軍兵士達の無数の銃口 を向けられ動けなくなる。
「ほっほっほ、カシラも往生際が悪いアルよ。それに売たなんて人聞きの悪いことアルよ。元々ワタシは第八路軍(第 二次国共合作後に国民革命軍へ改編された紅軍(共産党軍)の呼称)の間諜やってるアル。売るも何も紅軍の兵隊とし て当たり前の行動アルよ」
「テメェ、バーロの間諜だとぉ……ちくしょう!」
「今回はカシラの荷物を到着させるワケにはいかないアル」
「へ、なんで酒が師団司令部に届くとマズイんだよ」
「カシラ、それはあんまりアル。あれの中身は酒なんかじゃないアル」
「『茶』だって言うんだろ。だがよ『茶っ葉』をあんな厳重な容器に入れるもんか。ありゃ酒だ」
「オヤ、『茶』という暗号名は知ってたアルか?だけど、中身は間違いアル。『茶』は毒ガスのコトアルよ」
 毒ガスと聞いて、隊長格の男は驚愕の表情を浮かべる。
「ど、毒ガスだとぉ?無敵皇軍はそんな卑怯な兵器に頼らなくったって勝てるんだよ」
「オヤオヤ、カシラは東洋鬼子(トンヤンクイツ:日本人の蔑称)の本性を知らないアルか?日本軍は毒ガスや細菌で 中国人や満州人をたくさん殺してるアルよ」
 珍の顔から日頃浮かべている薄笑いが消え、仮面のような無表情に変わる。黒眼鏡の奥で目が怒りに燃えギラギラ光っ ているのを見て、隊長格の男は何も言えなくなる。
「ワタシの弟はハルピンで憲兵隊に捕まったアルよ。その後は日本軍の毒ガス部隊で実験台にされて、犬っころのように殺され たと聞いたアルよ。だから日本軍の毒ガスを奪って、逆に日本軍の司令部に撒いてやるのコトよ。これは弟の復讐アル!」
 隊長格の男は脂汗を流しながら珍の顔を見つめる。
「カシラには悪いけど、毒ガスを奪たことを日本軍に知られるワケにはいかないアル。カシラは部下の後を追て死んで 貰うのコトよ」
 そう言いながら珍は服の下から大きな拳銃をゆっくりと取り出す。ドイツ製のモーゼル大型拳銃だ。
 隊長格の男は血走った目を左右に走らす。周りは中国兵に囲まれており逃げ出すことは無理だ。ふと気が付くと”茶”の 容器を括り付けた駄馬が珍の斜め後ろに繋がれているのが目に入った。
「珍よぉ、ヤクザの取り引きってのは綺麗事だけじゃ終わらねぇんだよなぁ。裏切ったり裏切られたりでよぉ……でもな、 タダで殺されるようなヤワなことじゃ、若頭にまで出世デキねぇんだぜ」
 そう言いながら、隊長格の男は右手の拳銃を容器に向け引き金を引いた……

 隊長格の男の息の根を止めたのが、中国軍兵士の銃弾なのか珍の銃弾なのか、それとも弾痕から撒き散らされた毒ガス だったのかは本人には判らずじまいであった。



化学兵器(毒ガス)
 第一次大戦の最中に開発・使用された化学兵器(毒ガス)は安価な投資で最大の戦果を 挙げることができる兵器として第一次大戦後も各国で開発研究が行われた。
 日本軍でも、びらん性(皮膚や呼吸器に火傷状の症状を引き起こす)ガス剤であるイペリット(黄 一号)やルイサイト(黄二号)、呼吸器系に作用するジフェニール(赤一号)、催涙効果のある塩化 アセトフェノン(緑一号)などと共に即効性の高い青酸ガスを茶一号の名で製造している。
 基本的に液体の状態で容器に保管され、使用する際に気化させることで戦場に拡散させるものであ るが、保管容器や気化させるための方法など詳細な情報を当方は持っていないため小説中にあるよう な状況が起こりえるかは不明である。(たしか青酸ガスの気化温度って摂氏26度ぐらいじゃなかっ たっけ?で、液体のものを電熱器で熱して気化させるようなことを何かで読んだような……)
 現在でも大陸戦線や国内製造工場跡地や演習場跡などで遺棄された毒ガス(保存容器入りや砲弾入 りなど)が発見されることがあり、大陸では人体被害など、国内でも土壌汚染の深刻な事故を引き起 こしている。
 
青酸ガス(茶一号):窒息効果のある即効性毒物。呼吸器や皮膚から体内に吸収さ れた青酸は血液中で体中に酸素を運ぶ仕事を行っているヘモグロビンと結合し、体内での酸素供給 に障害を引き起こす。ガスに犯された生物は酸欠による窒息症状をおこし死に至る。

ちょっとだけ兵隊ヤクザっぽいノリで(苦笑)
プロットなんて何も無し。ネタとしては『珍竹林』と『茶』だけを元手に、これだけ膨らましてみました。
水増し増量にも程がありますね。


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