九七式手榴弾

 昭和20年8月15日 満州

 夏真っ盛りでも、それなりに涼しいはずの満州だったが、私は額に浮かぶ汗を押さえられなかった。

 一週間前に突然ソビエト軍がソ満国境を越えて侵攻を開始し、我々関東軍は敗走に敗走を重ねた。一昔前は精鋭と呼ばれた 関東軍だったが南方戦線へ次々と部隊が引き抜かれていき、今残っているのは召集令状でかき集めた素人同然の兵と学生上が りの将校で構成された烏合の衆にすぎない。
 かくいう私も、平和な世の中であればいまだ大学で医学を学んでいるであろうはずの医者の卵にしかすぎない。

 「草薙軍医殿!北から来る避難民がますます増えてきました!」
 私が所属する医療宣撫隊の隊長である伊藤少尉が医療天幕(テント)の中に入ってきて声をかける。

 「伊藤さん、そんなにかしこまらなくても良いですよ。階級だって同じだし、学校だって同じじゃないですか。」
 そう、伊藤少尉は学徒出陣で戦場に出て、彼より上級士官が全員戦死したため、あれよあれよと言う間に士官となってしま った天ぷら少尉(コロモだけ立派だが中身は……)なのである。しかも私が医学を学んでいた東京帝大(彼は文学専攻だが) の後輩だという。人の巡り合わせとは不思議なものである。

 「いえ、そういう訳には参りません。草薙軍医殿は大学の先輩ですし、しかも東京帝大野球部のエース……おっと、敵性語 はいかんですな……主力投手だった我が母校の誇りなんですから。」
 まだ二十歳を過ぎたばかりの伊藤少尉は、尊敬とあこがれの混じったような眼で私を見る。彼は私のことを買いかぶりすぎ だ。先輩と言っても大学内で彼と面識があったわけでも無く、主力投手といっても制球力が駄目な私は大きな試合で一度も勝 利投手になったことは無い。そればかりか、いつも敗戦処理投手としてマウンドに立つことの方が多かったぐらいだ。
 「伊藤さん、その主力投手ってのは止めてください。私は大一番で一度も勝利したことがないんですよ。」
 照れた私は、伊藤少尉にやんわりと断りを入れた。

 「そんなことはありません。草薙軍医殿が神宮球場で投げた最後の試合を自分はよく覚えています。まだ中学生だった私が 東京帝大を目指したのも草薙軍医殿の投球を見て感動したからなんです。さすがに文学一辺倒だった自分は野球部に入れませ んでしたし、一昨年からは通達で野球活動も停止されましたけど……あの草薙軍医殿が投げる剛速球には目を見はるものがあ りました。」
 断りを入れたつもりだったが、伊藤少尉は更に私を持ち上げてやまない。非常に照れくさくなった私は苦笑を浮かべるだけ にとどめた。

 「で、伊藤さん。避難民が増えてきたということは、ソビエト軍が付近まで迫ってきたということでしょうか?」
 先ほどの言葉が気になった私は伊藤少尉に質問した。

 「何人かの避難民に聞いてみたのですが、敵兵の姿を見た者は居りませんでした。国境付近から逃げてきた者の話を聞いて 浮き足立っているのでしょう。ソビエト兵は民間人に対しても略奪・暴行・殺人を厭わない鬼のような輩ばかりだと聞いてお りますから。」
 「そうですか……避難民の中に負傷者や病気の者が居れば私の所へまわしてください。……と言っても薬品も底をつきかけ てますので、たいしたことはできませんが。」
 「了解しました。……あ、あと司令部からの連絡によると本日正午に重大な指令が出されるらしいです。転進命令かもしれ ませんので、移動の準備をお願いします。」
 伊藤少尉は教科書どおりの敬礼をして天幕から出ていった。



 午前中は何人かの避難民へ治療を施して過ごしていた私だったが、正午の重大指令というのが気になって仕方がなかった。 戦局も悪化しており、報道こそされないが南方戦線では最後の一兵まで抗戦して全滅した部隊もあるとの噂も聞いている。こ の地に踏みとどまりソビエト軍に対して徹底抗戦せよとの命令が出たとしてもおかしくはない。私は覚悟を決めた。

 ふと気が付くと、避難民の流れが途絶えている。午前中あれだけ続いた北から南へ向かう避難民の列が消えているのだ。こ れはどうしたことだろうか。もう最後の避難民が通り過ぎてしまったのだろうか。

 そこへ血相を変えた伊藤少尉が駆けつけてきた。
 「草薙軍医殿!!大変です!停戦命令です!!」
 どうやら正午に出される重大指令とは、このことらしい。
 「伊藤さん、落ち着いてください。停戦と言うことは戦争は終わったということですか?もうソビエト軍は襲ってこないと いうことですか?」
 息を切らせた伊藤少尉を落ち着かせながら、私は彼に質問した。
 「戦争が終わったことは確かです。しかしソビエト軍がどう出るかは判りません。一時間程前から北に前進している部隊と の連絡が取れなくなっていますし、避難民も来なくなりました。もしかすると我々はソビエト軍に囲まれているのかもしれま せん。」
 自分の言葉に恐ろしくなったのか、真っ青になってつぶやく伊藤少尉。人数の少ない素人同然の部隊といえども隊長が錯乱 しているようでは行動も何もあったものではない。柄ではないが、私は伊藤少尉に活を入れることにした。
 「伊藤さ……いや、伊藤少尉!あなたはこの宣撫隊の隊長なんですよ。しっかりしてください。もし北にソビエト軍が迫っ ているとしたら我々軍人がなすべき事は一つ、南へ向かった避難民達が逃げられるだけの時間を稼ぐことです。」

 しかし伊藤少尉は青い顔をして震えるばかり。
 「でも、我々宣撫隊の武器は小銃が少しと拳銃、あとは重傷兵の自害用にと渡された手榴弾が数十あるだけです。これだけ の武器で怒濤のようなソビエト軍を止められるはずがありません……」
 「伊藤さん……軍人…いや男には負けると判っていても為すべき事を為さねばならないことがあるのです。軍人は民間人の 盾となり戦い死ぬことが義務なのです。それは伊藤さんにしても私にしても生粋の軍人じゃありません。しかし、ここで我々 が逃げ出してしまえば、老人や女子供しか居ない避難民達はどうなるのです。それにソビエト軍が襲ってくると決まったわけ でも無いでしょう?」
 敗戦処理ばかりでくさっていた私を叱ってくれた野球部監督の言葉の受け売りだったし、最後の言葉は自分の希望も大量に 含まれたものだったが、それを聞いた伊藤少尉の顔色も少し戻ってきた。
 「そうですね、まだ死ぬと決まったわけじゃ無いんですよね……判りました。部下達には次の指令まで現状維持と警戒態勢 を取らせることにします。草薙軍医殿も目立つ天幕から出られたほうが良いでしょう。」
 少し歴戦の将校のような顔つきになった伊藤少尉は部下へ指令を出すために天幕を出ていった。


 その日の午後は何もなく過ぎていった。いままで居た避難民の姿も無く、逆に恐ろしい程平穏で静かな時が流れていく。
 私は目立つ天幕の中から、必要な医薬品や医療器具を詰め込んだカバンと木箱に入った手榴弾を持ち出し、陣地の周囲に掘 り巡らした塹壕に移動して、中に腰を落ち着けた。
 日も沈みかけ、あたりが薄暗くなってきた頃になって伊藤少尉は、
 「自分は周囲を一回りして、部下達の様子を見てきます。」
 と言って立ち上がった。

 刹那、空気を切り裂くような音とともにバシッともビシッとも形容しがたい音が響いた。
 足下から崩れるように倒れ込む伊藤少尉。あわてて抱き起こすと彼のこめかみから血が吹き出ている。盲貫銃創……即死だ った。狙撃兵にやられたのだろうか。
 すぐに周りの塹壕から兵達の叫び声が聞こえた。
 「敵襲〜〜っ!!!!」
 塹壕の縁から頭を出してみると、薄闇の向こうから敵兵の向かってくるのが見える。自軍部隊からの反撃は非常に散発的だ。 小銃が数丁しかないのだから当然である。

 私は木箱のフタをこじ開けた。中には自害用として重傷兵に渡すための手榴弾が20個ほど入っている。
 手榴弾を一つ手に取り、重さを確かめる。野球の球に比べるとひどく重い。
 安全栓(ピン)を抜くと、撃芯を木箱の縁に叩きつける。信管が作動し、シューッと不気味な音を立てて燃え始めた。私は 敵兵の集団に向かって、その手榴弾を投げつけた。まだ距離はあったが、現役時代は打席の位置から外野席まで球を投げ込め るほどの強肩を誇った私の球威は衰えておらず、狙い過たず手榴弾は敵兵達の真ん中で破裂した。私は、
 「くそっ、なんでこんな時だけ狙いどおりの所に飛んでいくんだよ。」
 と見当違いのことを考えていた。

 次々と手榴弾を発火させ、敵兵に投げつける。バカーンと金属的な破裂音をさせ手榴弾が破裂すると敵兵がなぎ倒される。
 しかし物を投げて届く距離だ。数にまかせた敵兵の突撃を止めるには時間が無さすぎた。

 「ウラーーッ」
 敵兵が銃剣をひらめかせて塹壕に飛びこんでくる。私は最後に残った手榴弾を振りかぶったところだった。
 無防備な胴体に銃剣が突き刺さる……投げようとしていた手榴弾を握りしめたまま、私は暗黒の世界へ墜ちていく……
 「この調子なら、次の試合は先発でも大丈夫だな。」
 監督の声が聞こえたような気がしたが、爆発音とともに意識は無くなった。




九七式手榴弾
97式手榴弾  日本陸軍の手榴弾の歴史は大正十年(1921年)に採用された十年式手榴弾から始まった。
 金属製の容器に火薬を詰め込み、敵に投げつけ破裂させることで人馬を殺傷する武器として日本陸軍では重要な 位置づけの兵器であった。信管は打撃式(堅い物に打ち付けることで動作開始する)で、信管が7〜8秒で燃え尽 きると破裂する仕組みになっている。十年式と改良型の九一式手榴弾は擲弾筒でも発射可能であった。
 信管の燃える時間が長いと敵兵から投げ返されるおそれがあるため、軽量化された九七式からは信管燃焼時間が 4〜5秒に短縮されている。また九七式以降は擲弾筒での使用もできなくなった。
 九一式と九七式が最も多く、最も長い間使用された手榴弾であるが、戦争が始まると簡略化された九九式や陶器 製の手榴弾なども製作されるようになっている。
 戦局が悪化すると重傷兵の自害用としても使用されるようになり、部隊が移動する際に重傷兵を置き去りにする 場合は枕元に手榴弾を一つ置いていくことが多かった。重傷兵は不自由な体を動かし、安全栓(ピン)を抜いて信 管を叩き、腹の下に手榴弾を抱え込むようにうずくまって最後の時を迎えたのである……
 
全長:9.5センチ 全幅:5センチ 重量:450グラム 投擲距離:通常の兵士ならば20〜30m程度

 掲示板で褒められると、すぐにこれだ(笑)
 ちょっと主人公の豹変ぶりが唐突ですね。プロットも何も考えずに気分だけ(しかも半日)で書いているので……
 今回は掲示板で褒められて、次のネタは〜って考えたところ頭に浮かんだのが森田信吾氏の『栄光なき天才たち』
で読んだ澤村栄治投手の話。伝説の投手でありながら戦場に散った悲運の人物ですが、彼の手榴弾投擲距離が76m
だったということで、それに匹敵するキャラクターを主人公にしてみました。でもお医者さんなんだよな(苦笑)

とりあえず、次回作は未定と言うことで。では。
2004,10,15補足:補足というか蛇足。陸軍の正式な軍医は初任官時に中尉の階級が与えられるらしいです。この作中
では草薙軍医の階級を少尉としており、実情にあわない状況となっておりますが……寛大な目で見てください(苦笑)


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