トンブリ型 海防戦艦

Coastal defence ship "Dhonburi" Class
เรือปืนยามฝั่ง "ธนบุรี" คลาส


タイ王国(シャム)海軍 タイ海軍


Dhonburi
「トンブリ」(1938年)
スペックデータ
排水量:(常)2,015t ボイラー:−−−−− 燃料搭載量:重油 150t
全長:(全)76.5m
全幅:14.4m 主機:MAN式ディーゼル機関×2基 2軸推進
吃水:4.2m
出力:5,200hp
武装:
50口径20.3cm連装砲2基、40口径8cm単装砲4基、
4cm連装機関砲2基、13mm単装機銃2基
最大速力:15.5kt
航続距離:12ktで5,800浬
乗員定数:155名

同型艦名(2隻)
トンブリ[ธนบุรี]スリ・アユタヤ[ศรีอยุธยา]

トンブリ型海防戦艦について

 11世紀からインドシナ半島に王朝を築いてきたタイ王国(1939年までの国名は『シャム』[SIAM])は、周囲を海に囲まれた半島国家であることからある程度の海軍力を保有していた。しかし東南アジアは列強各国の植民地化に巻き込まれ、タイは列強諸国に対抗するために19世紀末から海軍の近代化に乗り出した。1920年代末の世界大恐慌の影響などで近代化はなかなか進まなかったが、1930年代に入って強力な砲を備えた海防戦艦を保有することができている。

 このタイ海軍が保有した海防戦艦は排水量二千トンあまりと小型ながら、主砲は20センチ口径の重巡洋艦に匹敵するものを搭載しており、コンパクトながら強力な攻撃能力を発揮するものであった。当クラスは両艦とも日本の川崎造船所で建造されており、主砲は日本海軍が重巡洋艦などに使用していた三年式20センチ砲と同じ物で、航空母艦「赤城」および「加賀」が全通式甲板へ改装する際に撤去した砲を流用しているとの説がある。機関はドイツMAN社製のディーゼル機関が搭載されているが、海防戦艦独特の船幅が広く全長が短いスタイルから最高速度は高くない。
 1930年代末に相次いで竣工した当クラスは、1940年11月に勃発したタイ・仏領インドシナ間の紛争に参加しており、翌41年1月17日にはフランス艦隊と砲撃戦を行っている(コーチャン島沖海戦)。「トンブリ」はこの海戦で損傷を負い、擱座してしまい、後に日本企業により浮揚・修理されたが損傷が酷く、その後は練習艦として使用された。「スリ・アユタヤ」は戦争の期間を無事に過ごしているが、戦後1951年におこった海軍将校によるクーデターの際に陸軍の重砲による砲撃などにより擱座・沈没した。


トンブリ型海防戦艦の歴史
トンブリ[ธนบุรี]
1936年川崎造船所にて起工
1938年 1月31日進水
       8月 5日竣工
1940年11月23日タイ・仏領インドシナ間で紛争が勃発
1941年 1月〜制海権確保のため、タイ海軍第2戦隊旗艦として出撃
       1月17日コーチャン島沖にてフランス極東艦隊と交戦
戦闘不能となり撤退中に横転・擱座
1941年末日本サルベージ社により引き揚げ、川崎造船所により修理が行われる
 損傷が酷いため、係留練習艦として使用される
1959年解役。後にスクラップとして解体処分
スリ・アユタヤ[ศรีอยุธยา]
1936年川崎造船所にて起工
1937年 7月31日進水
1938年 6月16日竣工
1938年スイス留学中の国王ラーマ8世送迎のため欧州へ航海を行う
1940年11月23日タイ・仏領インドシナ間で紛争が勃発
1941年 1月〜制海権確保のため、タイ海軍第1戦隊旗艦として出撃
       1月17日コーチャン島沖の第2戦隊救援に向かうが、仏艦隊を取り逃がす
(仏側の記録では仏艦隊の雷撃を受け損傷を負ったことになっている)
 「トンブリ」からタイ海軍旗艦の任を引き継ぐ
1950年スイス留学中の国王ラーマ9世(プミポン国王)送迎のため欧州へ航海を行う
1951年 6月29日海軍将校のクーデター(マンハッタンの反乱)が勃発。米艦「マンハッタン」の譲渡
式典に出席していた首相プレーク・ピブーンソンクラームは当艦上にて人質となる
       6月30日チャオプラヤ川を下るが、沿岸からの陸軍砲兵隊による砲撃により損傷
その後、航空隊の爆撃を受け擱座
(人質となっていた首相は、擱座後に泳いで避難したと言われている)
       7月 1日砲爆撃による火災のため沈没
(後に船舶通行の障害となるため浮揚され、解体処分)
1959年10月 8日除籍


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