ブルザ型 駆逐艦

"Burza" Class Destroyers
Niszczyciel typu "Burza"


ポーランド海軍 ポーランド海軍


ORP Bruza
「ブルザ」(1940年:Photo from Wikimedia Commons)
スペックデータ
排水量:(常)1,540t ボイラー:Guyot Du Temple水管罐・重油専焼×3基 燃料搭載量:重油330t
全長:(全)107.0m
全幅:10.36m 主機:Parsons式ギヤードタービン×2基、2軸推進
吃水:3.3m
出力:35,000hp
武装:
40口径13cm単装砲4基、40口径40mm単装ポンポン砲2基、13.2mm連装機銃2基、
55cm魚雷3連装発射管2基、爆雷投射機2基、機雷60個搭載可能
(BurzaのWW2時改装後:13cm単装砲2基、45口径4inch単装高角砲1基、4連装ポンポン砲1基、
76口径20mm単装機関砲4基(後に6基)、魚雷3連装発射管1基、対潜爆雷24連投射機1基)
最大速力:33.0kt
航続距離:15ktで3,000浬
乗員定数:155名

同型艦名(2隻)
ブルザ[Burza]ヴィヘル[Wicher]

ブルザ型 駆逐艦について
 第一次大戦までポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアといった周囲の大国に分割支配されており、第一次大戦終結により領土割譲でポーランド共和国が再誕した後も、ソビエトとの戦争などがあり国防に気の抜けない状況であった。しかし強力な陸軍に比較して海軍の戦力は微弱であったため、1924年に海軍戦力強化を目指す整備計画が策定され、その第一弾としてフランスに発注されたのが、当クラス2隻の駆逐艦であった。
 1926年に発注された当クラスは、当時最新鋭だった仏海軍の「ブーラスク」型駆逐艦をタイプシップとして設計されており、13センチ(約5.1インチ)砲4門や魚雷発射管6門など強力な武装が施されていた。1930年代初頭に竣工した当クラスはポーランド海軍に就役したが、1939年9月にポーランドへドイツ軍が侵攻した際に「ヴィヘル」は大破し、「ブルザ」はイギリスへ逃れ英海軍指揮下となった。
 第二次大戦終結時にも「ブルザ」は生き残っていたが、ポーランドへ凱旋したのは1951年になってからのことで、その後1960年から記念艦となっていたが、1977年に解体処分されている。
 なお、先に竣工した「ヴィヘル」をネームシップとしている資料が多いが、当サイトでは第二次大戦で活躍しポーランド海軍の中核を担った「ブルザ」をネームシップとしたので、ご注意願いたい。

ブルザ型 駆逐艦の歴史
ブルザ[Burza] (英海軍艦番号 H73)
1927年11月 1日フランセ造船所[Chantiers Naval Français]にて起工
1929年 4月16日進水
1932年 7月10日竣工
1939年 8月30日ドイツ軍の侵攻間近とみて、英国へ向け脱出を図る(ペキン作戦)
       9月 1日英海軍艦艇と邂逅をはたし、同日夜ロサイスへ到着
(同日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が開始される)
       9月 3日英海軍指揮下となり、艦番号(ペナントナンバー)を付与される
1940年 4月〜ノルウェー沖や英本土周辺で作戦に従事
       5月末ダンケルク撤退を支援
陸上砲台からの砲撃を受け損傷を負う
1941年〜大西洋にて船団護衛に従事
1943年 2月22日北大西洋にて独潜「U-606」を攻撃・撃沈(他艦と共同)
      10月アゾレス諸島への航空基地設営隊輸送の護衛任務に従事
1944年第一線任務から外され、練習艦となる
1945年自由ポーランド海軍潜水艦(英国からの貸与)の母艦任務に従事
1946年艦を英海軍へ引き渡し。ポーランド将兵は離艦する
1951年ポーランドへ返還。同年7月グディニャ(旧ゴーテンハーフェン)へ曳航され凱旋
1955年オーバーホールの後、ポーランド海軍へ再就役
1960年記念艦へ改装され、公開開始
1977年廃艦。解体処分となる
ヴィヘル[Wicher]
1927年 2月19日フランセ造船所にて起工
1928年 7月10日進水
1930年 7月 8日竣工
1939年 3月メーメル危機(ドイツによるリトアニア割譲の要求)に際し、緊急配備を実施
       9月 1日ドイツ軍によるポーランド侵攻が開始。グダニスク湾閉塞のため機雷敷設に出撃
独軍機の攻撃を受け、至近弾により損傷を負う
       9月 3日ヘル(ポーランド)湾内にて独駆「レーベリヒト・マース」および
「ヴォルフガング・ツェンカー」と交戦。その後独軍機の攻撃を受け大破着底
      11月侵攻したドイツ軍により浅瀬へ牽引されるが、そのまま放置となる
1946年終戦後、浮揚され湾外へ曳航。その後は爆撃訓練の標的として使用
1963年部分的に解体処分。船体の一部は海没処分となった


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