スループ(植民地警備艦) エリトリア

Sloop(Colonial Ship) "Eritrea"
Nave Coloniale(Avviso) "Eritrea"


イタリア王国海軍 他 イタリア海軍 フランス海軍


Eritrea
「エリトリア」(撮影時期不詳:Photo from Wikipedia)
スペックデータ
排水量:(基)2,165t ボイラー:−−−−− 燃料搭載量:重油320t
全長:(全)96.9m
全幅:13.3m 主機:Fiat式ディーゼル機関×2基+Marelli式電動モーター×2基
    (ディーゼル7,800hp+モーター1,300hp相当の併用)2軸推進
吃水:3.5m
出力:9,100hp
武装:
45口径12cm連装砲2基、39口径40mm単装機関砲
2基(第二次大戦時に54口径37mm連装機関砲2基へ換装)、
13.2mm単装機銃4基
最大速力:20.0kt
航続距離:12ktで6,950浬
乗員定数:234名

同型艦名(1隻)
エリトリア [Eritrea] 

スループ(植民地警備艦)エリトリアについて

 19世紀末から20世紀初頭にかけてアフリカに植民地を得たイタリアだったが、植民地警備のための軍艦(スループ艦や通報艦)を持っておらず、航洋型砲艦や旧式巡洋艦などを使用していた。
 1930年代に入って仮想敵国であるフランスが植民地警備のための新型スループ艦(「ブーゲンヴィル」型)を建造したことを受けて、イタリア海軍も植民地警備用のスループ艦を建造することとし、建造されたのが当艦である。イタリア式植民地警備艦としてのプロトタイプ的な艦であるため姉妹艦は無い。
 基準排水量で二千トンを超える艦で、機関はディーゼル機関と電動モーターの併用となっている。長船首楼型の船体の前後に1基ずつ12センチ連装砲塔が搭載されている。

 1937年に竣工した当艦は、スペイン内戦に際して西地中海での警備に従事した後、38年からマッサワを拠点に紅海で行動した。40年にイタリアが第二次大戦に参戦した後もマッサワに留まった(英軍によりスエズ運河を封鎖されていたためイタリア本国への帰還は不可能だった)。41年になって紅海へ連合軍が進出してくると当艦はインド洋を経由して太平洋へ脱出し、仮装巡洋艦と共に長躯日本まで逃れている。同年末に日本が参戦すると、当艦は東南アジアへ進出して枢軸軍艦艇の警備に従事している。
 43年にイタリアが休戦すると当艦は日本やドイツに鹵獲されるおそれが生じたため、英軍の影響下にあるコロンボへ脱出しそこで連合軍に降伏した。降伏後は武装解除され、終戦後にフランスへ戦時賠償として引き渡されており、1960年代までフランス海軍の通報艦として警備任務などに従事している。


スループ(植民地警備艦)エリトリアの歴史
エリトリア [Eritrea]
1935年 7月25日カステラマーレ・ディ・スタビア工廠[Cantiere navale di Castellammare di Stabia]にて起工
1936年 9月20日進水
1937年 6月28日竣工
       6月末〜スペイン内戦に際し、西地中海にて警備任務に従事
1938年〜伊海軍東アフリカ艦隊へ転属。マッサワへ進出
1940年 6月〜イタリア参戦に伴い交戦状態となる。マッサワにて警備を継続
1941年 2月〜紅海を脱出しインド洋へ
       3月神戸港へ到着。日本は未参戦だったため神戸港へ抑留となる
      12月〜日本参戦により日本の支援で行動自由となる。東南アジアへ進出
1942年〜ペナン、シンガポールなどを拠点にインド洋などで任務に従事
1943年 9月 8日イタリアが連合軍に降伏。航海中だった当艦は日本軍の追撃を逃れコロンボへ脱出
       9月14日コロンボにて連合軍に降伏。武装解除となる
1947年イタリア海軍除籍。翌年1月戦時賠償としてフランスへ引き渡し
1948年 2月12日フランス海軍へ編入。護衛通報艦[avisopuis escorteur]に類別
艦名を「フランシス・ガルニエ」[Francis Garnier]と改名
1953年〜仏海軍極東艦隊に所属し、第一次インドシナ戦争に参加
1955年〜仏海軍太平洋艦隊に転属
1964年〜仏領ポリネシアにて太平洋実験センター[Centre d'expérimentation du Pacifique]建設を支援
1966年仏海軍除籍。実艦標的として使用され沈没


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