特殊潜航艇 甲標的(A標的)

Midget Submarine "Kou-hyouteki" (Target "A")


甲標的甲型

甲標的丙型
(上段)甲標的甲型(38号艇:1944年)/(下段)甲標的丙型(69号艇:1944年)
スペックデータ(甲型:【 】内は丙型の数値)
排水量(水上):不明排水量(水中):47t【50t】全長:(全)23.9m【(全)24.9m】
出力(水上):600hp【640hp】出力(水中):600hp全幅:1.85m【1.88m】
最大速力(水上):不明【6.0kt】最大速力(水中):19.0kt【18.5kt】全高:3.40m【3.43m】
航続距離(水上):不明【6ktで300浬】航続距離(水中):6ktで80浬【4ktで120浬】乗員数:2名【3名】
燃料搭載量:蓄電池224基【蓄電池208基+重油(ディーゼル発電用)搭載量不明】潜行深度:100.0m
主機関:蓄電池式電動機1基、同軸反転推進【蓄電池式電動機1基+ディーゼル発電式電動機1基、同軸反転推進】
武装:
《魚雷2発搭載》45cm魚雷発射管2門(艦首2)

建造数
試作型:2
[Prototype]
甲型:51
[Type-1]
乙型:5(甲型から改造)
[Type-2(modified Type-1)]
丙型:37(+訓練用10)
[Type-3(+Trainer model)]

特殊潜航艇 甲標的について

 ワシントン海軍条約やロンドン海軍条約により仮想敵国であるアメリカに対し主力艦艇の戦力差が劣勢となった日本海軍では、長年にわたり米艦隊邀撃作戦の構想を練ってきた。日本へ向け進行してくる米艦隊を漸減させるため、いくつかの提案を検討していたが、その中に「潜航可能な高速魚雷搬送体(親魚雷)で敵に肉薄しての雷撃」というアイデアがあり、これに目をとめた艦政本部では昭和7年(1932年)にプランをまとめ、同年10月から試作が行われた。完成した特殊潜航艇の試作1号艇は昭和8年から航走試験が行われたが、凌波性や対波性能が不十分で外洋での使用に適さないとして昭和9年にお蔵入りとなってしまった。
 ところが昭和13年になって、竣工したばかりの水上機母艦「千歳」型を特潜母艦に改造し、特殊潜航艇を敵艦隊の目前まで運んでから出撃させるという構想が出てくると、お蔵入りしていた特殊潜航艇が再度注目され、昭和14年に第二次試作の命令が出て翌年に第二次試作艇二隻が完成した。試作艇による試験の結果、性能的に良好とは言えないものであったが昭和15年11月に特殊潜航艇は「甲標的」として制式採用となった(「甲標的」以外にも「A標的」「H金物」などの秘匿名称があった)。

 制式採用後に(実際には制式採用の1ヶ月ほど前から)量産が開始され、昭和16年12月の真珠湾攻撃が初陣となった。真珠湾攻撃では日本海軍機が奇襲攻撃を行うのにあわせて湾内に侵入した「甲標的」が敵艦への雷撃を行う予定であったが、出撃した五隻とも未帰還となり、捕虜となった酒巻少尉以外の乗員九名は戦死した。

 最初の量産型は蓄電池しか搭載しておらず、航続距離が短く行動可能時間も限られていたため、昭和18年になってディーゼル発電機を搭載して航続距離・行動時間を延ばした改良型が試作された。これは量産型(甲型と呼ばれた)を改造したもので乙型と呼ばれている。この改良型を量産化したものが丙型と呼ばれ、昭和19年以降の生産は丙型へ移行した。この丙型では司令塔や操舵室を拡張・増設した練習用の艇も製造されている。

 下記掲載のとおり「甲標的」は多くの作戦に参加しており、いくつかの戦果を挙げることにも成功しているが、『決死(死を覚悟して行う)』作戦が『必死(生還が期待できない)』のものになってしまうことが大半で、米軍のフィリピン攻略を阻止するために新設された第33根拠地隊(司令部セブ島)や沖縄に進出した鶴田隊(沖縄本島本部地区運天基地)では、米軍が上陸してくると甲標的乗員の多くが陸上戦で玉砕してしまっている。


特殊潜航艇 甲標的が参加した主要作戦
日付作戦内容
1941年12月 8日第一次特別攻撃隊ハワイ攻撃(五隻10名)。母艦は巡潜丙型五隻。
戦果未確認。全艇とも未帰還
1942年 5月31日第二次特別攻撃隊ディエゴスワレス攻撃(二隻4名)。母艦は巡潜丙型二隻。
英戦艦「ラミリーズ」小破、英油槽船1沈没。全艇とも未帰還
       〃第二次特別攻撃隊シドニー攻撃(三隻6名)。母艦は巡潜丙型二隻と巡潜乙型一隻。
繋留中の宿泊船1大破。全艇とも未帰還
1942年11月 7日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−20。
米輸送艦1撃破。乗員は脱出後ガ島へ上陸、後に帰還
1942年11月11日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−16。
艇体損傷のため自沈。乗員は脱出後マルボボへ上陸、後に帰還
1942年11月19日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−20。
潜舵故障のため自沈。乗員は脱出後ガ島へ上陸、後に帰還
1942年11月23日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−24。
出撃後消息を絶つ。戦果未確認。未帰還
1942年11月27日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−16。
米輸送艦1撃破(大破着底)。攻撃後消息を絶つ。未帰還
1942年12月 2日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−20。
米輸送艦を攻撃するも命中せず。乗員は脱出後カミンボ付近へ上陸、後に帰還
1942年12月 6日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−24。
米輸送艦1撃破(11月27日の艦に再度命中したもの)。攻撃後消息を絶つ。未帰還
1942年12月13日ルンガ泊地攻撃(一隻2名)。母艦はイ−16。
米駆逐艦を攻撃するも命中せず。乗員は脱出後ガ島へ上陸、後に帰還
1944年12月 8日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1944年12月18日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 1月 3日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
雷撃を避けようとした米敷設艦1が僚艦と衝突損傷。艇は生還
1945年 1月 5日セブ島南方沖迎撃(三隻9名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。二隻は生還。一隻は米駆「テイラー」の体当たりにて沈没
1945年 1月25日セブ島南方沖迎撃(三隻9名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 2月13日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 2月21日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 3月17日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 3月21日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 3月23日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 3月26日セブ島南方沖迎撃(一隻3名)。第33根拠地隊発進。
敵攻撃により潜航不能となり自沈。乗員は生還
1945年 3月26日那覇沖迎撃(一隻3名)。沖縄運天基地発進。
戦果不明。艇は生還
1945年 3月27日残波岬沖迎撃(二隻6名)。沖縄運天基地発進。
戦果不明。一隻は生還。一隻は衝突沈没
1945年 4月 5日嘉手納沖攻撃(二隻6名)。沖縄運天基地発進。
雷撃するも命中せず。艇は生還


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