イ−16型 潜水艦(巡潜丙型)

"I-16" Class Submarines (Type"Jyunsen-Hei")


イ−16
「イ−16潜水艦」(1940年)
スペックデータ
 水上水中 
排水量:(常)2,554t3,561t全長:(全)109.30m
出力:12,400hp2,000hp全幅:9.10m
最大速力:23.6kt8.0kt吃水:5.34m
航続距離:16kt-14000浬3kt-60浬乗員数:95名
燃料搭載量:重油 816t安全潜行深度:100.0m
主機関:艦本式2号10型ディーゼル機関×2基、2軸推進
武装:
【魚雷20発搭載】53cm魚雷発射管8門(艦首8)
40口径14cm単装砲1基、25mm連装機銃1基

同型艦名(8隻)
イ−16"I-16"イ−18"I-18"イ−20"I-20"イ−22(2代)"I-22(2)"
イ−24(2代)"I-24(2)"イ−46"I-46"イ−47"I-47"イ−48"I-48"

イ−16型潜水艦(巡潜丙型)について
 日本海軍の対米戦略「漸減作戦」では巡潜甲型を旗艦とした潜水隊を巡潜乙型・丙型により構成し広大な太平洋に配置、日本へ向かい来る敵艦隊を攻撃して、漸次削り取っていくという計画であった。巡潜乙型は索敵能力強化のため甲型と同様に水偵を搭載していたが、この丙型は航空機を搭載せず魚雷発射管を増やして雷撃能力を高めている。
 敵艦隊を逃さぬよう横一列に展開した潜水艦部隊が扇状に魚雷を発射するという飽和攻撃(扇状に多数の魚雷を発射することで敵艦の逃げ場を塞ぐ攻撃方法)を実施するため艦首の発射管を八門に増やし、魚雷の搭載数も20本と増加させている。
 しかし太平洋戦争では漸減作戦を実施する機会はあらわれず、昭和17年の改マル五計画で予定されていた丙型の量産も中止となり、昭和12年のマル三計画および昭和16年のマル急計画で竣工した艦も、戦局の推移から「甲標的」や特攻兵器「回天」の搭載母艦として改造されていったため、強力な雷装の出番もないまま終戦までに「イ−47」以外の七隻が戦没してしまっている。
 回天母艦に改装された「イ−47」が回天隊を搭載して出撃したときのエピソードだが、昭和19年末にホーランディア泊地(ニューギニア)攻撃のため航行中、グアム西方沖300浬のところでイカダに乗って漂流していた日本兵8名を発見した。「イ−47」の折田艦長(海兵59期:当時少佐)は作戦遂行中のため救助をためらったが、回天搭乗員の川久保中尉(海兵72期)が「あの8名を救助してください。我々(搭乗員)4名のかわりに8名が生還できるのはめでたいことです」と懇願したため救助が行われたという。この8名は無事に本土へ帰還できている。

イ−16型潜水艦(巡潜丙型)の歴史
「イ−16」 
1937年 9月15日呉工廠にて起工
1938年 7月 8日進水
1940年 3月30日竣工
1941年12月〜太平洋戦争に参加。甲標的母艦としてハワイ攻撃に参加
1942年 4月〜インド洋方面へ展開
       5月31日甲標的母艦としてマダガスカル島ディエゴスワレス攻撃に参加
       6月〜アフリカ東岸での通商破壊に従事。同年8月本土へ帰還
      10月〜甲標的母艦としてガダルカナル泊地攻撃に参加
1943年 1月〜ガダルカナル・ラエ方面への輸送任務に従事
       4月 1日ニューブリテン島沖にて「イ−20」と接触事故をおこし損傷を負う
       9月〜本土にて修理完了後、ニューギニア方面への輸送任務に従事
      12月25日〜ラバウルにて敵機の空襲を受け損傷を負い、本土へ帰還し修理を行う
1944年 2月〜トラックを拠点にマーシャル島東方にて遊撃任務に従事
       5月14日ブイン輸送作戦のためトラック出航後消息不明となる
(5月19日ブイン島北東で米護衛駆「イングランド」の攻撃を受け沈没)
      10月10日除籍(6月25日戦没認定)
「イ−18」 
1937年 8月25日佐世保工廠にて起工
1938年11月12日進水
1941年 1月31日竣工
      12月〜太平洋戦争に参加。甲標的母艦としてハワイ攻撃に参加
1942年 1月26日ミッドウェー島の浮上砲撃に参加するも敵の反撃を受け失敗
       4月〜甲標的母艦としてマダガスカル島ディエゴスワレス攻撃の準備を行うが、
機関故障のため参加できず
       6月〜アフリカ東岸での通商破壊に従事。同年8月本土へ帰還
1943年 1月〜ガダルカナル・エスペランス方面への輸送任務に従事
       2月11日ガダルカナル沖で敵艦隊攻撃中の報を最後に消息不明となる
(同日インディスペンサブル礁南東で米駆「フレッチャー」の攻撃を受け沈没)
       4月 1日除籍(2月11日戦没認定)
「イ−20」 
1937年11月16日三菱重工神戸にて起工
1939年 1月25日進水
1940年 9月26日竣工
1941年12月〜太平洋戦争に参加。甲標的母艦としてハワイ攻撃に参加
1942年 1月〜フィジー・サモア方面の偵察任務に従事。
1月11日にはサモア島パゴパゴを浮上砲撃
       4月〜インド洋方面へ展開
       5月31日甲標的母艦としてマダガスカル島ディエゴスワレス攻撃に参加
       6月〜アフリカ東岸での通商破壊に従事。同年8月本土へ帰還
      11月〜甲標的母艦としてガダルカナル泊地攻撃に参加
      12月〜カミンボ・エスペランス方面への輸送任務に従事
1943年 3月〜ラエ方面への輸送任務に従事
       4月 1日ニューブリテン島沖にて「イ−16」と接触事故をおこすも損傷なし
       5月20日〜本土へ帰還。修理などを実施
       8月 4日〜トラック経由でニューヘブライズ諸島方面に展開し作戦に従事
       8月30日ニューヘブライズ諸島方面で敵艦隊発見の報を最後に消息不明となる
(10月1日ベラ・ラベラ沖にて米駆「イートン」の攻撃を受け沈没)
(9月3日ニューヘブライズ諸島近海で米駆「エレット」の攻撃を受け沈没説あり)
      12月 1日除籍(11月18日戦没認定)
「イ−22」(2代) 
1937年11月25日川崎重工にて起工
1938年12月23日進水
1941年 3月10日竣工
      12月〜太平洋戦争に参加。甲標的母艦としてハワイ攻撃に参加
      12月16日ジョンストン島を砲撃する(日潜水艦初の対地砲撃作戦)
1942年 4月〜ポートモレスビー攻略に参加
       5月甲標的母艦としてシドニー港攻撃に参加
       6月ニュージーランド方面の偵察任務に従事。7月11日、本土へ帰還
       9月11日〜インディスペンサブル海峡方面監視のため出撃
      10月 4日マライタ島東方にて敵情報告の後、消息不明となる
(11月12日ニューブリテン島南西沖にて米魚雷艇「PT-122」の攻撃を受け沈没)
      12月15日除籍(11月12日戦没認定)
「イ−24」(2代) 
1938年12月 5日佐世保工廠にて起工
1939年11月12日進水
1941年10月31日竣工
      12月〜太平洋戦争に参加。甲標的母艦としてハワイ攻撃に参加
1942年 1月26日ミッドウェー島の浮上砲撃に参加するも敵の反撃を受け失敗
       4月〜インド洋方面へ展開。マダガスカル攻撃の準備を行うが、搭載する甲標的の
二次電池爆発により出撃不能となり参加中止
       5月〜甲標的母艦としてシドニー港攻撃に参加。
5月31日、甲標的出撃後にシドニーを浮上砲撃
       6月〜オーストラリア東岸で通商破壊に従事。7月本土へ帰還
       9月〜ガダルカナル、ソロモン近海の哨戒任務に従事
      12月甲標的母艦としてルンガ泊地攻撃に参加
1943年 1月〜ブナ・ラエ方面の輸送任務に従事。3月本土へ帰還
       5月〜北方部隊へ編入。幌筵へ進出
       6月 5日アッツ島へ残留した連絡員の救助に向かうが空振りにおわる
       6月 7日キスカ撤収作戦に参加。状況報告後に消息不明となる
(6月11日アッツ島近海にて米駆潜艇「PC-487」の攻撃を受け沈没?)
       8月 1日除籍(6月11日戦没認定)
「イ−46」 
1942年11月21日佐世保工廠にて起工
1943年 6月 3日進水
1944年 2月29日竣工
      10月19日〜フィリピン方面へ進出。作戦行動に従事
      10月26日レイテ湾東方にて敵情報告後、消息不明となる
(10月28日レイテ湾にて米駆逐隊の攻撃を受け沈没説あり)
1945年 3月10日除籍(前年12月2日戦没認定)
「イ−47」 
1942年11月21日佐世保工廠にて起工
1943年 9月29日進水
1944年 7月10日竣工
      10月第15潜水隊に配属。母艦として回天隊との共同訓練を実施
      11月 8日〜ウルシー泊地の回天攻撃に参加。回天菊水隊(4基)を搭載して出撃
      11月20日ウルシー泊地へ回天隊を出撃させ、米油槽艦「ミシシネワ」撃沈の戦果を挙げる。
当艦は11月30日に呉へ帰還
      12月25日〜ホーランディア泊地の回天攻撃に参加。回天金剛隊(4基)を搭載して出撃
      12月30日作戦遂行中、グアム西方沖で漂流していた日本兵8名を救助
1945年 1月10日ホーランディア、フンボルト湾へ回天隊を出撃させる。当艦は2月1日に呉へ帰還
(報告には敵輸送艦四隻撃沈となっているが、実際は貨物船一隻損傷のみ)
       2月〜3月回天を6基搭載できるように改修を実施(上甲板備砲を撤去)
       3月28日〜沖縄近海の敵艦隊攻撃のため回天多々良隊(6基)を搭載して出撃
       3月29日九州南方沖にて敵駆逐隊の執拗な攻撃を受け、搭載回天が破損したため撤退。
4月1日に呉へ帰還
       4月20日〜沖縄近海の敵輸送船団攻撃のため回天天武隊(6基)を搭載して出撃
       5月 2日敵輸送船団を発見、回天3基を出撃させる
(米貨物船一隻が損傷を負う)
       5月 7日敵軽巡を発見、回天1基を出撃させるも戦果不明。5月13日に呉へ帰還
(報告には敵軽巡一隻轟沈となっているが、米側に該当記録無し)
       7月19日〜沖縄東方沖の敵船団攻撃のため回天多聞隊(6基)を搭載して出撃
       7月29日〜フィリピン東方へ移動。翌30日に台風暴風圏に入り回天1基を喪失
       8月 6日帰投命令を受領。8月13日に光基地(山口県)で回天を降ろした後、呉へ到着
       8月15日呉港にて終戦を迎える
      11月30日除籍。翌年4月1日、五島沖で海没処分
「イ−48」 
1943年 6月19日佐世保工廠にて起工
      12月12日進水
1944年 9月 5日竣工
      12月第15潜水隊に配属。母艦として回天隊との共同訓練を実施
1945年 1月 9日回天金剛隊(4基)を搭載してウルシー泊地攻撃に出動後、消息不明となる
(1月23日ヤップ島沖で米護衛駆「コービジェ」「コンクリン」等の攻撃を受け沈没)
       5月10日除籍(1月31日戦没認定)


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