ロ−35型 潜水艦(中型)

"Ro-35" Class Submarines (Type"Chuu")


ロ−50
「ロ−50潜水艦」(1944年頃)
スペックデータ
 水上水中 
排水量:(常)1,106t1,447t全長:(全)80.50m
出力:4,200hp1,200hp全幅:7.05m
最大速力:19.6kt8.0kt吃水:4.07m
航続距離:16kt-5000浬5kt-45浬乗員数:61名
燃料搭載量:重油 151t安全潜行深度:80.0m
主機関:艦本式22号10型過給器付ディーゼル機関×2基、2軸推進
武装:
【魚雷10発搭載】53cm魚雷発射管4門(艦首4)
40口径7.6cm単装高角砲1基、25mm連装機銃1基

同型艦名(18隻)
ロ−35"Ro-35"ロ−36"Ro-36"ロ−37"Ro-37"ロ−38"Ro-38"ロ−39"Ro-39"
ロ−40"Ro-40"ロ−41"Ro-41"ロ−42"Ro-42"ロ−43"Ro-43"ロ−44"Ro-44"
ロ−45"Ro-45"ロ−46"Ro-46"ロ−47"Ro-47"ロ−48"Ro-48"ロ−49"Ro-49"
ロ−50"Ro-50"ロ−55(2代)"Ro-55(2)"ロ−56(2代)"Ro-56(2)"

ロ−35型潜水艦(中型)について
 いざ戦時となると大量の艦船が必要になってくるが、平時から大量の艦船を建造し保有することは維持コスト的にも人員的にも不可能なので、開戦となった時に艦船を急造できるような体制を整えておく必要があった。そこで日本海軍は昭和9年度計画で潜水艦の戦時急造モデルの開発を行った。これが前出の「ロ−33」型(海中5型)である。
 昭和15年になって、この戦時急造モデルが役に立つときが来た。同年5月に戦時応急編成への移行が決定され出師準備第一着作業に着手したからである。この計画で九隻の建造が計画されたのがこの「ロ−35」型(中型)である。(資料によっては特中型を『海中5型』、海中5型を『海中6型』と呼称しているものがあり、これらに続く艦番号が与えられている本クラスを『海中7型』と呼称しているが、これらは海軍の公式呼称ではない)
 「ロ−33」型の設計をベースに若干船体を拡大しており、昭和8年に完成した艦本22号ディーゼル機関が装備されている。この機関は故障も少なく操縦性にも優れていたため実戦部隊でも好評であり、最前線の将兵からは「水中高速型などの性能が未知の潜水艦を建造するぐらいなら中型潜を大量に建造したほうが良い」との意見も出されるほどであった。
 最終的に中型の整備計画は93隻と大量にのぼったが、日本海軍は大型巡洋潜水艦を重視していたため完成したのは18隻にとどまった。運用の容易さから常に最前線で戦い、終戦までに17隻が戦没している。
 ドイツ海軍での戦略のように、このような潜水艦を大量に建造し戦線に投入することで通商破壊作戦を行ったとしたら、連合軍の戦略に多大な影響を与えたかもしれないが、日本海軍における潜水艦の位置づけや戦局の悪化などから、量産効果(建造経験を積むことでの工期短縮や建造コスト削減など)が発揮されるまで至らずに建造が終了した。

注意!「このページは同型艦が多いため年表を2ページに分けております。このページの一番下に
2ページ目へのリンクを貼ってありますので「ロ−44」以降の艦についてはそちらをご覧ください。」
ロ−35型潜水艦(中型)の歴史
「ロ−35」 
1941年10月 9日三菱重工神戸にて起工
1942年 6月 9日進水
1943年 3月25日竣工
       7月17日呉を出撃。トラック経由でエスピリットサント方面の哨戒任務に従事
       8月25日エスピリツサント島方面で敵輸送船発見の無電発進後、消息不明となる
(同日エスピリツ・サント方面で米駆逐艦「パターソン」の攻撃を受け沈没)
      12月 1日除籍(10月2日戦没認定)
「ロ−36」 
1942年 3月 7日三菱重工神戸にて起工
      10月17日進水
1943年 5月27日竣工
       9月24日〜トラック進出後、ニューヘブライズ方面の哨戒任務に従事
      10月13日艦内で中毒患者(乗員の6割強)が発生したため任務を中止しトラックへ帰還
      12月 8日〜ソロモン諸島南東海域の哨戒任務に従事。翌年1月8日トラックへ帰還
1944年 2月25日〜トラック南東海域の哨戒任務やクェゼリンの偵察任務に従事
3月15日にはクサイ島(現コスラエ島)北西海域への移動が命じられる
       3月23日ピンゲラップ島駐在の見張員を収容しトラックへ帰還。4月26日舞鶴へ帰還
       6月 4日〜舞鶴を出撃。サイパン経由でニューギニア北方海域の哨戒任務に従事
10日頃、敵機動部隊来襲のためマリアナ方面への移動が命じられる
       6月13日サイパン島付近で敵情報告後に消息不明となる
(同日サイパン島近海で米駆逐艦「メルヴィン」の攻撃を受け沈没)
       8月10日除籍(7月12日戦没認定)
「ロ−37」 
1941年10月 9日佐世保工廠にて起工
1942年 6月30日進水
1943年 6月30日竣工
      10月 7日〜トラック経由でウェーキ方面の哨戒任務に従事
1944年 1月 3日ニューヘブライズ方面哨戒任務のためトラック島を出撃後、消息不明となる
(1月23日ナウル島近海にて米給油艦「キャッシュ」を雷撃、大破させるが、
その後米駆「ブキャナン」の攻撃を受け沈没)
       4月30日除籍(2月17日戦没認定)
「ロ−38」 
1942年 6月20日三菱重工神戸にて起工
1942年12月24日進水
1943年 7月24日竣工
      11月19日〜トラック経由でギルバート諸島方面の哨戒任務に出撃。消息不明となる
(米駆「コットン」の攻撃を受け沈没説がある)
1944年 4月30日除籍(1月2日戦没認定)
「ロ−39」 
1942年 8月 8日三菱重工神戸にて起工
1943年 3月 6日進水
       9月12日竣工
      12月28日〜トラックに進出のため舞鶴を出港。1月6日トラック到着
1944年 1月20日〜ギルバート諸島方面の哨戒任務に従事
2月1日不時着水搭乗員の救助を命じられウオッゼ方面へ移動
       2月 2日緊急通信を発信後に消息不明となる
(2月3日ウォッゼ島東方にて米駆「シャレット」および米護衛駆「フェア」の攻撃を
受け沈没)
       4月30日除籍(3月5日戦没認定)
「ロ−40」 
1942年 8月 8日三菱重工神戸にて起工
1943年 3月 6日進水
       9月28日竣工
1944年 1月29日トラックへ進出
       2月12日マーシャル方面哨戒任務のためトラック出撃後に消息不明となる
(2月16日クェゼリン島付近で米駆「フェルプス」「マクドナー」の攻撃を受け沈没)
       4月30日除籍(3月28日戦没認定)
「ロ−41」 
1942年10月 6日三菱重工神戸にて起工
1943年 5月 5日進水
      11月26日竣工
1944年 3月〜トラック南東海域、ホーランディア方面、メレヨン島南方などで哨戒任務に従事
       5月〜クサイへの輸送任務後、ヤルート方面の哨戒任務に従事
6月13日マリアナ方面への移動を命じられる。7月5日佐世保へ帰還
       9月18日〜パラオ経由でモロタイ島方面の哨戒任務に出撃
      10月 3日モロタイ沖にて米護衛駆「シェルトン」を雷撃、大破させる。14日呉へ帰還
(「シェルトン」は味方艦に曳航され待避するが途中で転覆沈没)
      10月20日〜比島沖海戦参加のため呉を出撃。サマール島東方などで行動
11月18日舞鶴へ帰還
      12月24日〜フィリピン北東海域哨戒のため徳山を出撃。翌年1月31日呉に帰還
1945年 3月18日〜沖縄方面哨戒のため佐伯を出撃
       3月22日敵駆逐艦発見の通信後、消息不明となる
(3月23日米駆「ハガード」の爆雷攻撃を受け浮上。砲撃戦ののち炎上沈没)
       5月25日除籍(4月15日戦没認定)
「ロ−42」 
1942年 4月27日佐世保工廠にて起工
      10月25日進水
1943年 8月31日竣工
      12月23日〜エスピリットサント方面海域の哨戒任務に従事
1944年 1月 4日エスピリットサント東方にて米油槽船「YO159」を撃沈。24日トラックへ帰還
       2月25日〜クサイ島方面の哨戒任務、クェゼリン偵察などに従事。3月28日トラックへ帰還
       5月 2日横須賀へ帰還。休養や艦長交代を行う
       5月15日〜「あ号作戦」のためクェゼリン北東海域に向け横須賀を出撃
6月22日に帰投命令を発令するも応答なし
(6月11日トラック沖にて米護衛駆「バンガスト」の攻撃を受け沈没)
       8月10日除籍(7月12日戦没認定)
「ロ−43」 
1942年10月 6日三菱重工神戸にて起工
1943年 6月 5日進水
      12月16日竣工
1944年 3月11日〜トラック経由でトラック周辺の哨戒任務に従事
19日艦内タンクのバルブ爆発事故のためトラック経由で舞鶴へ帰還
       5月28日〜サイパン経由でサイパン周辺の哨戒任務に従事
6月16日以降はマリアナ周辺の哨戒任務に従事。26日舞鶴へ帰還
      10月19日〜比島方面の哨戒任務のため呉を出撃
31日以降はサンベルナルジノ海峡で行動。11月16日佐世保へ帰還
      12月 8日〜ルソン島東方海域の哨戒任務のため佐世保を出撃。翌年1月4日呉へ帰還
1945年 2月15日南西諸島東方の哨戒任務のため呉を出撃。17日硫黄島方面への移動を命じら
れるが、その後消息不明となる(2月21日硫黄島付近で米駆「レンショー」を雷撃、
損傷を負わせるが、同月27日米空母機の攻撃を受け沈没)
       4月10日除籍(3月14日戦没認定)
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