第1号型 掃海艇

"No.1" Class Fleet Mine Sweeper


第2号

第3号
(上段)第2号掃海艇(撮影時期不詳)/(下段)第3号掃海艇(1923年頃)
スペックデータ
排水量:(公)702t ボイラー:ロ号艦本式罐・石炭専焼×2基 燃料搭載量:石炭 150t
全長:71.63m
全幅:8.03m 主機:直立型往復動蒸気機関(3気筒3段膨張式)×2基、2軸推進
吃水:2.29m
出力:4,000hp
武装:
45口径12cm単装砲2基、40口径7.6cm単装高角砲1基、
爆雷18個搭載(投射機2、投下台6)
最大速力:20.0kt
航続距離:12ktで2000浬
乗員定数:97名

同型艦名(4隻)
第1号"No.1"第2号"No.2"第3号"No.3"第4号"No.4"

第1号型掃海艇について
 機雷という兵器は日露戦争で大きな戦果を挙げ、その有効性が証明された。しかし機雷を除去し艦艇の安全を図る艦の発達は遅かった。日露戦争において日本海軍は内火艇にワイヤーを曳航させて係留機雷を固定しているワイヤーを切断、浮上させる手法をとっていたし、第一次大戦でも各国海軍は底引き網漁船を流用して掃海を行っていた。
 世界で初めて専門の掃海艇を建造したのは英国海軍で、竣工は1917年のことであった。それに遅れること6年、日本海軍も八八艦隊計画の一環として専門の掃海艇を建造した。これが「第1号」型掃海艇である。
 日本の掃海艇は艦隊の前進基地周辺を掃海するのが主任務のため高い航洋性は持たず、小型の船体で艦首部を一段高め船首楼を持った駆逐艦の様なスタイルをしているのが特徴である。
 八八艦隊計画では補助艦艇に予算を割けなかったため機関は安価な石炭専焼きのレシプロ機関を採用しているが、備砲は艦の用途・サイズとしては大きめの砲を備えている。これは掃海中に敵艦と遭遇・交戦するような場合を想定してのことである(日本海軍の『量より質』体質もあって、掃海任務以外にも敵艦艇との交戦を視野に入れていたのかもしれない)。

第1号型掃海艇の歴史
「第1号」 
1922年 5月10日播磨造船所にて起工
1923年 3月 6日進水
       6月30日「第一掃海艇」として竣工
1924年 4月24日艦名を「第1号掃海艇」と改名
1941年11月〜南遣艦隊に所属し南方へ進出。開戦後は上陸作戦支援等を実施
1942年 1月〜東南アジア方面にて船団護衛や掃海任務などに従事
       6月〜日本本土近海にて船団護衛や哨戒任務に従事
1945年 8月10日岩手県山田湾にて敵機の攻撃を受け沈没
       9月15日除籍
「第2号」 
1922年 4月13日三井造船玉工場にて起工
1923年 3月17日進水
       6月30日「第二掃海艇」として竣工
1924年 4月24日艦名を「第2号掃海艇」と改名
1941年11月〜南遣艦隊に所属し南方へ進出。開戦後は上陸作戦支援等を実施
1942年 3月 1日ジャンク島にて味方の誤射により沈没
       3月10日書類上は第4予備掃海艇となる
(完全に水没せずマスト頂上が海面上に露出していたため沈没扱いされなかった)
1945年11月30日除籍
「第3号」 
1923年 6月30日大阪鉄工所桜島工場にて「第三掃海艇」として竣工
1924年 4月24日艦名を「第3号掃海艇」と改名
1945年 4月 9日岩手県大船渡湾にて米潜水艦の雷撃を受け沈没
「第4号」 
1925年 4月29日佐世保工廠にて竣工
1944年 5月19日ハルマヘラ島カウ湾にて触雷、損傷を負う
1945年 8月15日終戦を迎える。英国海軍に接収される
1946年 7月11日シンガポール、ケッペル湾にて海没処分


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