第1号型 掃海特務艇

"No.1" Class Auxiliary Mine Sweeper


第11号
掃海特務艇「第11号」(1943年頃)
スペックデータ(計画値)
排水量:(公)222t ボイラー:−−−−− 燃料搭載量:重油 10t
全長:29.6m
全幅:5.92m 主機:赤坂式ディーゼル機関×1基、1軸推進
吃水:2.25m
出力: 300hp
武装:
短8cm単装高角砲1基、7.7mm機銃1基、
(後に25mm単装機銃を2〜4基追加)、
爆雷12個搭載(投下軌条2)
最大速力:9.5kt
航続距離:9.5ktで1200浬
乗員定数:44名

同型艦名(22隻)
第1号〜第22号"No.1〜No.22"

第1号型掃海特務艇について
 太平洋戦争開戦前の日本海軍では、自身の戦略でも機雷作戦を重視しておらず、日露戦争であれだけロシア海軍の機雷に苦しめられたにもかかわらず、機雷を除去する掃海艇についてもあまり数をそろえていなかった。保有していた掃海艇も性能は高かったが戦時急造に向かない複雑な構造をしていたし、主力艦艇の増強に予算を割かれていたため、補助艦艇の充実は二の次にされているのが実情であった。
 日中戦争が始まって中国沿岸部での艦隊行動が盛んになってくると、掃海艇の不足が目立ってくるようになり、海軍では民間のトロール漁船などを徴用して掃海任務に従事させていた。トロール船も大きな掃海具を引っ張って低速航行する能力は掃海艇に負けていなかったが、やはり軍用としての利用を考慮されていない漁船では不満のある部分もあったため、昭和13年(1938年)頃から簡易な構造で安価な掃海艇の研究が開始された。
 トロール漁船の船体を基本に船倉部分を兵員室や弾薬庫にした掃海艇が設計され、昭和15年度の追加計画(マル臨計画)にて6隻の建造が認められた(その後、昭和16年度のマル急計画で16隻が追加された)。計画時は雑役船であったが建造が始まると特務艇(掃海艇)に分類され、民間造船所で順次建造が行われている。
 完成した時点で太平洋戦争は既に始まっていたため本土近海や南洋諸島などで掃海任務に従事したが、終戦までに7隻が戦没してしまっている。生き残っていた艇の大半は、終戦直後の掃海や復員作業に従事したあと、戦時賠償として各国へ引き渡された。

第1号型掃海特務艇の歴史
艇番号建造所竣工沈没戦没場所・沈没原因備考
大阪鉄鋼桜島'42.01.31'42.05.04サボ島近海にて米軍機の攻撃により沈没 
大阪鉄鋼桜島'42.02.28'42.05.04サボ島近海にて米軍機の攻撃により沈没 
大阪鉄鋼桜島'42.05.30'45.07.24スラバヤ近海にて米軍機の攻撃により沈没 
浪速船渠'42.06.29'44.07.19チモール島近海にて英軍機の攻撃により沈没 
大阪鉄鋼桜島'42.06.30−−−トラック島にて終戦を迎える 
浪速船渠'42.10.30'45.08.10岩手県山田湾にて米軍機の攻撃により沈没 
大阪鉄鋼彦島'42.12.28−−−シンガポールにて終戦を迎える戦時賠償として英国へ引き渡し
大阪鉄鋼彦島'43.01.31'44.10.21比ギガンデス島付近にて米軍機の攻撃により沈没 
名村造船所'42.11.30−−−シンガポールにて終戦を迎える戦時賠償として英国へ引き渡し
10佐野安船渠'42.11.30'45.01.12比ルソン島沖にて米駆逐艦の攻撃により沈没 
11浪速船渠'43.02.24−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として英国へ引き渡し
12浪速船渠'43.03.31−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償としてソ連へ引き渡し
13三菱下関'43.04.14−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として米国へ引き渡し
14三菱下関'43.04.24−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として中国へ引き渡し
15名村造船所'43.04.30−−−鎮海にて終戦を迎える 
16佐野安船渠'43.03.31−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として英国へ引き渡し
17浪速船渠'43.05.28−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償としてソ連へ引き渡し
18名村造船所'43.07.31−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として米国へ引き渡し
19佐野安船渠'43.06.30−−−終戦後、復員任務に従事戦時賠償として中国へ引き渡し
20浪速船渠'43.07.31−−−終戦後、復員任務に従事戦時賠償としてソ連へ引き渡し
21三菱下関'43.06.15−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として米国へ引き渡し
22名村造船所'43.10.20−−−終戦後、掃海任務に従事戦時賠償として中国へ引き渡し


検索画面に戻るときはブラウザの「戻る」等の機能を使用してください。 LAST UPDATE 2015,10,12