軽巡洋艦 夕張

LightCruiser "Yuubari"


夕張
軽巡洋艦「夕張」(1923年)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
夕張
第55号(2015.03.03)
軽巡洋艦「夕張」1944年

スペックデータ
排水量:(公)3,141t ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×8基 燃料搭載量:重油 918t
全長:132.59m
全幅:12.04m 主機:三菱・パーソンス式オールギヤードタービン×3基、3軸推進
吃水:3.86m
出力:57,900hp
武装:
50口径14cm連装砲2基、50口径14cm単装砲2基、
40口径7.6cm単装高角砲1基(後に撤去)、61cm魚雷連装発射管2基4門
(改装により45口径12cm高角砲1門や25mm機銃などを増設している)
最大速力:35.5kt
航続距離:14ktで5000浬
乗員定数:328名

同型艦名(1隻)
夕張"Yuubari"[Yûbari]

軽巡洋艦 夕張について
 造船官であった平賀譲造船大佐(当時)の提言を受けて、日本海軍は八四艦隊計画で建造が予定されていた5,500トン級軽巡洋艦9隻のうち1隻を、5,500トン級と同等の武装を施しつつ3,000トンクラスの船体で建造することにした。これがこの「夕張」である。小さな船体にどれだけの武装を施せるかの実験艦のような物であったため同型艦は建造されていない。
 主砲や魚雷発射管を艦中心線上に配置し左右両舷方向へ発射できるようにすることで砲塔数を減らし、煙突も1本の大型集合煙突にするなど斬新的なデザインの艦として完成し、列強各国の海軍に一大センセーショナルを巻き起こした。しかし後に平賀造船官は「このように多種多様な兵器を搭載すると艦の建造額が上昇する」と自ら批判していたという。
 舷側装甲や甲板装甲を船体構造と一体化させることで船体の軽量化に成功しており、以後に建造される日本海軍巡洋艦の参考にもなっているが、小型ゆえに他の大型化していく重巡・軽巡に比べ搭載兵装の貧弱さは隠せず、太平洋戦争でも護衛や輸送などの二線級任務に従事することが多かった。

軽巡洋艦 夕張の歴史
「夕張」「夕張」=北海道夕張山脈に源を発し石狩川へそそぐ
夕張川から取った名称。かつて流域には数多くの炭坑が栄えた
1922年 6月 5日佐世保工廠にて起工
1923年 3月 5日進水
      7月31日竣工
1924年煙突頂部の延長工事を実施(煙突が2メートル高くなった)
1932年 3月〜7.6cm高角砲の撤去、魚雷発射装置に防盾を追加装備(完了は翌年1月)
1935年11月18日〜第三艦隊に所属し、日華事変に参加。華中作戦に従事
1936年機雷敷設装置の撤去、13mm機銃の追加工事
1940年13mm機銃を25mm機銃に換装。舷側に消磁電路を追加
1941年12月 7日〜第四艦隊(第六水雷戦隊)に所属し、太平洋戦争に参加
ウェーキ・ラバウル攻略等に参加
1942年 3月10日ラエ・サモア攻略作戦に参加中、米艦載機の攻撃を受け軽微な損傷を負う
      3月14日ラバウルへ待避するも、同月20日に米爆撃機の攻撃を受け軽微な損傷を負う
      5月ポートモレスビー攻略部隊の護衛に従事後、同月中旬に修理のため本土へ帰還
      6月19日〜修理完了後トラックへ進出。第一次ソロモン海戦等に参加
      9月バナバ島・ナウル島への上陸作戦を支援
     12月〜修理のため本土へ帰還(修理完了は翌年3月)
1943年 4月〜ラバウルへ進出。作戦任務に復帰
      7月 5日ブーゲンビル島沖にて触雷、損傷を負う
      7月末〜修理のため本土へ帰還。修理と水中聴音機の搭載工事を実施(完了は同年10月)
     10月末ラバウルへ進出。南太平洋にて作戦に従事
     11月11日同月11日、14日の米軍機によるラバウル空襲により軽微な損傷を負う
     11月24日輸送任務に従事中、米軍機の攻撃を受け損傷
     12月修理のため本土へ帰還。修理及び電探搭載、対空兵装強化工事を実施
(完了は翌年3月)
1944年 3月22日第三水雷戦隊旗艦として船団護衛に従事。マリアナ諸島へ向かう
      4月27日護衛任務中、パラオ南西で米潜水艦「ブルーギル」の雷撃を受け沈没
      6月10日除籍


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