利根(2代)型 重巡洋艦

"Tone(2)" Class HeavyCruisers


利根
重巡洋艦「利根」(1938年頃)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
利根
第24号(2013.12.24)
重巡洋艦「利根」1942年
筑摩
第57号(2015.03.31)
重巡洋艦「筑摩」1944年

スペックデータ
排水量:(公)13,320t ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×8基 燃料搭載量:重油 2690t
全長:189.10m
全幅:19.40m 主機:艦本式オールギヤードタービン×4基、4軸推進
吃水:6.23m
出力:152,000hp
武装:
50口径20.3cm連装砲4基、40口径12.7cm連装高角砲4基、
25mm連装機銃6基、61cm魚雷3連装発射管4基12門、
水偵5〜6機搭載(射出機2基)
最大速力:35.0kt
航続距離:18ktで8000浬
乗員定数:874名

同型艦名(2隻)
利根(2代)"Tone(2)"筑摩(2代)"Tikuma(2)"

利根(2代)型重巡洋艦について
 ロンドン海軍条約の取り決めによる日本海軍の軽巡洋艦保有制限は、「最上」型四隻が建造された時点で残り16,955トンとなっていた。そこで8,500トン型の「最上」型より少し小型の8,450トン型軽巡洋艦を二隻建造する予定を立てた。
 ところが建造開始直後に海軍当局側から砲塔を一基減らして、代わりに水偵の搭載機数を増やすように要求が出された。これは仮想敵国であるアメリカの巡洋艦と比べて日本海軍の巡洋艦は水偵の搭載機数が少なく、偵察活動に不利であると考えられたからである。
 そこで「利根」型は建造に着手していた船体はそのままに、砲塔四基をすべて前部甲板に配置することで、後部甲板は水偵搭載スペースとして水偵を最大六機搭載できるようにした。これは主砲の爆風範囲の外に航空機を配置することにもなり、おかげで戦闘状況に関わらず搭載機を運用できるようにもなったほか、「最上」型より砲塔が減少したため、艦内弾薬庫が縮小し搭載燃料が増加している。
 建造途中で無理な軽量化をした部分の見直しも行われた結果、排水量が一万トンを超えロンドン海軍条約に違反するようになってしまったが、竣工が条約期限明けになる予定のため問題ないとして工事は続行された。また条約に縛られる必要が無くなったので、主砲も15.5センチ砲を20.3センチ砲に変更して搭載したため、当初の計画(「最上」型と同様に軽巡として建造し、条約明け後に重巡へ改装する)と異なり最初から重巡洋艦として竣工することになった。  太平洋戦争では緒戦から重要な作戦・海戦に参加しており、搭載水偵により機動部隊の目として重要な役割を果たしてきたが、比島沖海戦にて「筑摩」は沈没し「利根」も損傷を負った。この沈没に際し「筑摩」搭乗員の生存者は駆逐艦「野分」に救出・収容されたが、「野分」も翌日には米艦隊の攻撃により沈没したため、生存者は「野分」沈没後に米軍に救助された1名だけであった。
 本土へ戻った「利根」は、修理後も燃料不足から目立った行動をとることはできず、呉に繋留されたまま連合軍機の攻撃により大破している。

利根(2代)型重巡洋艦の歴史
「利根」(2代)「利根」=関東一の大河、利根川から取った名称。
群馬県丹後山に源を発し、流長322kmを誇る
1934年12月 1日三菱重工長崎造船所にて起工
1937年11月21日進水
1938年11月20日竣工
1940年 9月仏印進駐の支援任務に従事
1941年11月26日〜太平洋戦争に参加。機動部隊に所属し真珠湾攻撃に参加
      12月21日〜ウェーク島攻略作戦を支援
1942年 1月〜トラック島へ進出、ラバウル攻略、ポートダーウィン空襲などを支援
       4月 5日セイロン沖海戦に参加。当艦艦載機が英重巡を発見
       5月24日〜ミッドウェイ海戦に参加。射出機の故障で索敵機の発進に遅れが生じる
       8月16日〜第三艦隊に所属し、トラック進出。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加
1943年 2月対空火器増設および対空レーダー(21号電探)装備工事を実施(完了は同年3月)
      11月機関故障のため呉へ帰還。修理・対空火器増設を行う(完了は同年12月)
1943年12月23日〜インド洋交通破壊作戦に参加。44年3月英商船「ビハール」号の乗員を艦上で処刑し
戦後、民間人の虐殺事件として戦争裁判で裁かれる(ビハール号事件)
1944年 6月マリアナ沖海戦に参加
       6月下旬対空火器増設、水上レーダー(22号電探)、対空レーダー(13号電探)
装備工事を実施(完了は同年7月)
      10月25日比島沖海戦において、サマール島沖で米空母群を砲撃の際に被爆、小破
      11月修理のため舞鶴へ帰還。45年2月修理完了後、呉へ回航される
1945年 2月 兵学校の練習艦として利用される
       3月19日呉にて米軍機の攻撃を受けるも損傷軽微
       7月24日江田島に停泊中、米軍機の攻撃を受け大破、着底。そのまま終戦を迎える
      11月20日除籍
1948年浮揚解体される
「筑摩」(2代)「筑摩」=関東山地の中央、甲武信岳に源を発し信濃川へと
つながる筑摩(千曲とも書く)川から取った名称
1935年10月 1日三菱重工長崎造船所にて起工
1938年 3月19日進水
1939年 5月20日竣工
1940年 3月〜中国南部沿岸にて作戦に従事
1941年11月26日〜太平洋戦争に参加。機動部隊に所属し真珠湾攻撃に参加
      12月21日〜ウェーク島攻略作戦を支援
1942年 1月〜トラック島へ進出、ラバウル攻略、ポートダーウィン空襲などを支援
       4月 5日セイロン沖海戦に参加
       5月24日〜ミッドウェイ海戦に参加
       8月16日〜第三艦隊に所属し、トラック進出。第二次ソロモン海戦に参加
      10月26日〜南太平洋海戦に参加。米軍機の攻撃を受け損傷を負う
      11月〜修理および対空火器増設、対空レーダー(21号電探)装備工事を実施
(完了は翌年2月)
1943年11月米軍のブーゲンビル島上陸を受けラバウルへ進出
11月5日米軍機の攻撃を受け損傷を負う
1944年 3月〜インド洋交通破壊作戦に参加
       6月マリアナ沖海戦に参加
       6月下旬対空火器増設、水上レーダー(22号電探)、対空レーダー(13号電探)
装備工事を実施(完了は同年7月)
      10月25日比島沖海戦(サマール島沖海戦)において米空母群との交戦の際に被爆大破
その後、駆逐艦「野分」の雷撃により自沈処分
1945年 4月20日除籍


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