巡洋艦 済遠

Cruiser "Saien"


済遠
呉軍港で撮影された「済遠」(1895年:Photo from Wikimedia Commons)
スペックデータ(日本海軍編入時点)
排水量:(常)2,440t ボイラー:円罐・石炭専焼×2基 燃料搭載量:石炭 230t
全長:71.02m
全幅:10.52m 主機:三段膨張式往復動蒸気機関×2基、2軸推進
吃水:5.00m
出力:2,800hp
武装:
38口径21cm連装砲1基、35口径15cm単装砲1基、
7.5cm単装砲2基、47mm単装砲6基、36cm魚雷発射管4門
最大速力:15.0kt
航続距離:不明
乗員定数:180名

同型艦名(1隻)
済遠"Saien"

巡洋艦 済遠について
 元は清国海軍巡洋艦「済遠」(チー・ユァン)[Ji-Yuan]で、威海衛でほぼ無傷なまま捕獲され日清戦争終戦後に戦利艦として日本海軍へ編入された。元々の名称が漢字名だったため編入に際して艦名を付け替えることは無かった。なお「済遠」は「せいえん」とも発音するが同時期に清国海軍に「靖遠」(チン・ユァン)[Jing-Yuan]という巡洋艦もあり読み方が同じ「せいえん」だったので、区別するために当艦は「さいえん」と呼ばれた。
 本艦はドイツのフルカン造船所で建造された防護巡洋艦で、戦争前には清国北洋艦隊に所属しており、1886年には親善巡航の名目で戦艦「定遠」「鎮遠」などとともに長崎、呉、神戸、品川などを歴訪し、日本へのデモンストレーションを行っている。このとき補修名目で寄港した長崎において、勝手に上陸した水兵が市街で狼藉をはたらき、日本人と清国水兵双方に死傷者を出す長崎事件をおこしている。この事件により日本国内世論の清国への反感は大きくなり、後に日清戦争をひきおこす要因の一つとなった。

巡洋艦 済遠の歴史
「済遠」「済遠」=清国海軍北洋水師所属の艦として典型的な
命名で「遠きを救い整える」の意味がある。
1880年 1月31日ドイツのフルカン造船所にて起工
1883年 6月 6日進水
1885年 8月清国海軍巡洋艦「済遠」として竣工
1886年 8月清国北洋艦隊に所属し長崎へ補修のため寄港
保養のため上陸した水兵が騒動をおこす(長崎事件)
1894年清国北洋艦隊に所属し、日清戦争に参加
      7月25日豊島沖海戦に参加。日巡洋艦「吉野」と砲撃を交わし損傷を負う
      9月17日黄海海戦に参加。砲戦の途中で離脱し旅順へ帰還する
後に艦長(方伯謙大佐)は敵前逃亡の罪で死刑となった
1895年 2月12日威海衛夜襲(同年2月4日〜)の後、日本に降伏
      3月16日戦利艦として日本海軍に編入。巡洋艦に類別
1898年 3月21日三等海防艦に類別
1903年12月ロシアの脅威が迫ったため、邦人保護を目的として仁川・木浦へ派遣
1904年 2月第三艦隊第七戦隊に所属し、日露戦争に参加
      2月 8日釜山沖でロシア汽船「エカテリノスラブ」(後に潜水母艦「韓崎」となる)を拿捕
     11月30日陸軍の二〇三高地攻撃を支援中に触雷、沈没
1905年 5月21日除籍


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