大淀型 軽巡洋艦

"Ooyodo" Class LightCruisers


大淀
軽巡洋艦「大淀」(1943年頃)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
大淀
第78号(2016.01.19)
軽巡洋艦「大淀」1944年

スペックデータ
排水量:(公)9,980t ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×6基 燃料搭載量:重油 2445t
全長:180.0m
全幅:16.6m 主機:艦本式オールギヤードタービン×4基、4軸推進
吃水:5.95m
出力:110,000hp
武装:
60口径15.5cm3連装砲2基、65口径10cm連装高角砲4基、
25mm3連装機銃6基(後に増強)、水偵6機搭載(計画値)
最大速力:35.0kt
航続距離:18ktで8700浬
乗員定数:782名

同型艦名(2隻)
大淀"Ooyodo"[Ôyodo]仁淀"Niyodo"(建造されず)

軽巡洋艦 大淀型について
 日本海軍の作戦構想として計画されていた漸減作戦において一翼を担う潜水艦隊の指揮旗艦は5,500トン型軽巡が交代で務めることになっていた。しかし広大な太平洋戦線で敵艦隊を発見するためには偵察機の搭載数が多いほうが有利なため、水上偵察機を多数搭載できる「大淀」型が建造された。
 しかし開戦により二番艦「仁淀」は着工前に建造中止となり、建造された「大淀」も竣工時には戦局が悪化しており、また搭載する予定の水偵「紫雲」の開発も失敗し潜水戦隊旗艦としての活躍の場は失われることになった。
 だが大戦末期の1944年(昭和19年)になると燃料事情が悪化しきたため、従来の連合艦隊旗艦である大型艦の行動が制限されるようになった。そこで日本海軍は潜水戦隊旗艦として旗艦設備の充実した「大淀」に目を付け、水偵用格納庫を司令部設備に改造して「大淀」を連合艦隊旗艦とした。これは現代海軍が配備する指揮専用艦のはしりであるとも言えよう。しかし、『旗艦(指揮官)先頭』の気性が抜けない用兵側からは、攻撃力や防御力の劣る軽巡洋艦は連合艦隊旗艦として不適格であるとの意見もあったほか、司令部施設を追加したことで艦のバランスが崩れ復原性が悪化し、操艦(特に高速での急転舵)に注意が必要となった。
 なお、この「大淀」型の主砲は「最上」型が重巡洋艦へ改装する際に降ろした15.5センチ砲塔を流用している。

軽巡洋艦 大淀型の歴史
「大淀」「大淀」=宮崎県都城盆地周辺の山地を源流とし、日向灘へそそぐ
大淀川から取った。流長106キロメートル。
1941年 2月14日呉工廠にて起工
1942年 4月 2日進水
1943年 2月28日竣工
      7月10日〜第三艦隊に所属し、ラバウル・カビエン輸送作戦に従事
1944年 2月トラック島陥落を前に、本土へ待避。本土〜サイパン間の輸送任務に従事
      3月 6日〜連合艦隊旗艦への改装工事を行う(同年5月1日完了)
      5月 4日〜連合艦隊司令長官旗艦となる(〜9月29日まで)
     10月20日〜レイテ沖海戦に参加
     12月26日令号作戦のためカムラン湾を出撃しミンドロ島へ向かう途中、米爆撃機の攻撃を
受けるも爆弾不発のため損傷軽微。同日深夜にサンホセ港の米輸送船団を攻撃
1945年 2月10日〜東南アジア方面から日本本土への戦略物資輸送(北号作戦)に参加
      3月 1日練習艦に指定される
      3月19日呉軍港にて米艦載機の空襲を受け損傷を負う
本格的な修理は行われず、以後は浮き砲台として使用される
      7月24日江田島湾に停泊中敵機の攻撃を受け大破着底するも、排水作業により傾斜復原
      7月28日再度の米艦載機空襲により大破着底ののち横転
     11月20日除籍。1947年引き揚げ、48年解体
「仁淀」「仁淀」=四国の中央部石鎚山に端を発し高知平野から土佐湾へそそぐ
仁淀川から取った。流長124キロメートル。
 「大淀」型二番艦(第137号艦)として計画されるが、開戦のため未着工


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