阿賀野型 軽巡洋艦

"Agano" Class LightCruisers


阿賀野
軽巡洋艦「阿賀野」(1942年頃)
能代
軽巡洋艦「能代」(1943年:Photo from Wikimedia Commons)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
阿賀野
第26号(2014.01.21)
軽巡洋艦「阿賀野」1942年

スペックデータ
排水量:(公)7,710t ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×6基 燃料搭載量:重油 1420t
全長:162.0m
全幅:15.2m 主機:艦本式オールギヤードタービン×4基、4軸推進
吃水:5.63m
出力:100,000hp
武装:
50口径15.2cm連装砲3基、60口径7.6cm連装高角砲2基、25mm3連装機銃
2基(後に3連装4基、連装2基へ増設、「酒匂」は3連装機銃10基、単装機銃18基、
「矢矧」は3連装10基、単装4基、「能代」は3連装8基)、61cm魚雷4連装発射管
2基8門、水偵2機搭載(射出機1基)
最大速力:35.0kt
航続距離:18ktで6000浬
乗員定数:726名

同型艦名(4隻)
阿賀野"Agano"能代"Nosiro"
矢矧(2代)"Yahagi(2)"酒匂"Sakawa"

阿賀野型軽巡洋艦について
 大正期の『八四艦隊計画』から『八八艦隊計画』に至る艦艇増強計画で、十四隻という大量の軽巡洋艦を配備した帝国海軍は、海軍軍縮条約締結以降に本格的な軽巡洋艦の建造を行わなかった(「夕張」は実験艦的なものであったし、「最上」型は最初から重巡洋艦の代替として考えられていたので、軽巡洋艦の本格的建造とは言えない)。
 しかし、1930年代後半になると就役している軽巡洋艦たちが旧式化してきたため、第四次補充計画(昭和14年度計画)で久しぶりに軽巡洋艦六隻の新造が認められた。六隻のうち四隻がこの「阿賀野」型であり、残り二隻が潜水戦隊旗艦として建造された「大淀」型である。
 「阿賀野」型は水雷戦隊の旗艦として設計されているため、駆逐艦に匹敵する速度と水雷兵装の充実が最優先となっている。帝国海軍伝統の夜戦を重視しているため船体もできるだけ小型にまとめようとしているものの、旧来の5,500トン型軽巡に比べると排水量は数割増しに膨れあがっている
 船体軽量化のため主砲弾の揚弾・装填の一部は機械を使わず人力とされたので、主砲口径は「最上」型の15.5センチに比べて15.2センチと小さくなっており、また対空兵装が貧弱なのは太平洋戦争時の艦としては致命的であった(後に25ミリ機銃が増強されている)。結局のところ大戦を通じて艦隊雷撃戦は行われなかったので、この「阿賀野」型も活躍の場はほとんど無かった。
 なお「阿賀野」型は太平洋戦争開始後に完成したため、戦時防諜の観点から竣工の発表がされず終戦までその存在を一般国民には知らされていなかった。四隻の姉妹艦のうち終戦まで生き残れたのは竣工が遅かった最終艦の「酒匂」のみで、戦後「酒匂」は戦艦「長門」などとともに水爆実験の標的艦として使用されている。

阿賀野型軽巡洋艦の歴史
「阿賀野」「阿賀野」=猪苗代湖を発端に多くの川と合流し会津盆地を流れる
阿賀野川から取った。流長170キロメートル。
1940年 6月18日佐世保工廠にて起工
1941年10月22日進水
1942年10月31日竣工
     12月トラック島へ進出。護衛任務やガダルカナル撤退支援に従事
1943年 6月呉工廠にて対空火器増設、対空レーダー(21号電探)装備工事を実施
(完了は同年7月)
     11月 1日〜第三艦隊第十戦隊旗艦として、ブーゲンビル島沖海戦に参加
     11月 5日第一次ラバウル空襲にて至近弾一発を受けるも損傷軽微
     11月11日第二次ラバウル空襲にて雷撃を受け艦尾を大破
     11月12日修理のためトラック島へ回航中、米潜「スキャンプ」の雷撃を受け航行不能となり
「能代」に曳航されてトラック島へ撤退する
     11月下旬〜第十戦隊の旗艦任務を解かれ、トラック島にて応急修理を実施
1944年 2月15日本修理実施のため本土へ向けトラック島を出発
1944年 2月16日トラック北方にて米潜水艦「スケート」の雷撃を受け沈没
      3月31日除籍
「能代」「能代」=東北地方を流れる米代川下流の別名、能代側から取った。
流域には古くから鉱山が開発され、河港がいくつも繁栄した。
1940年 9月 4日横須賀工廠にて起工
1942年 7月19日進水
1943年 6月30日竣工
     11月 5日ラバウルへ進出直後、第一次ラバウル空襲にて小破
1944年 1月 1日ガビエンへの輸送任務中、米軍機の攻撃を受け中破
      3月22日〜第二戦隊旗艦としてタウイタウイ進出
      6月19日マリアナ沖海戦に参加
     10月25日比島沖海戦(サマール沖海戦)に参加。敵空母を砲撃
     10月26日ミンドロ島南方で米軍機の攻撃を受け沈没
     12月20日除籍
「矢矧」(2代)「矢矧」=木曽山脈に端を発し、岡崎平野を流れ知多湾にそそぐ
矢矧川から取った。流長120キロメートル。
1941年11月11日佐世保工廠にて起工
1942年10月25日進水
1943年12月29日竣工
1944年 2月 6日〜第三艦隊第十戦隊旗艦としてタウイタウイ進出
      6月19日マリアナ沖海戦に参加
      7月20日リンガへ進出
     10月25日比島沖海戦(サマール沖海戦)に参加。敵空母を砲撃。米駆逐艦「ジョンストン」撃沈
     11月15日〜編成替により第二水雷戦隊旗艦となる
     11月26日修理のため佐世保へ回航(修理完了は翌年3月)
1945年 4月 6日〜戦艦「大和」の護衛として沖縄特攻(天一号)作戦に参加
      4月 7日敵機の攻撃を受け沈没(坊ノ岬沖海戦)
      6月20日除籍
「酒匂」「酒匂」=神奈川県西部を流れる酒匂川から取った。流長45キロメートル。
急流のため土砂の流出が多く昔から洪水が多かった。
1942年11月21日佐世保工廠にて起工
1944年 4月 9日進水
     11月30日竣工
1945年 1月15日〜内地にて訓練任務に従事
      8月15日舞鶴港にて無傷で終戦を迎える
     10月 1日除籍。米軍に接収される
     12月〜武装解除され、特別輸送艦として復員輸送に従事
1946年 7月 1日ビキニ環礁にて水爆実験の標的艦に使用され、大破炎上ののち翌日沈没


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