大和(2代)型 戦艦

"Yamato(2)" Class Battleships


大和

武蔵
(上段)戦艦「大和」(1941年:竣工前公試時)/(下段)戦艦「武蔵」(1943年:トラック泊地にて)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
大和
第1号(2013.02.05)
戦艦「大和」1945年
武蔵
第4号(2013.03.19)
戦艦「武蔵」1942年

スペックデータ
排水量:(公)69,100t ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×12基 燃料搭載量:重油 6400t
全長:(全)263.0m
全幅:38.9m 主機:艦本式オールギヤードタービン×8基、4軸推進
吃水:10.40m
出力:150,000hp
武装:
45口径46cm3連装砲3基、60口径15.5cm3連装砲4基、
40口径12.7cm連装高角砲6基、25mm3連装機銃8基、
13mm連装機銃2基、水偵7機搭載
(最終的には15.5cm3連装砲4基→2基、
 12.7cm連装高角砲6基→12基(「大和」)、
 25mm3連装機銃8基→29基(「大和」)、35基(「武蔵」)、
 25mm単装機銃26基追加、のように改修されている。)
最大速力:27.0kt
航続距離:16ktで7200浬
乗員定数:約2,500名

同型艦名(4隻)
大和(2代)"Yamato(2)"武蔵(3代)"Musasi(3)"
信濃"Sinano"111号艦"No.111"[Hyakuzyûitigôkan]

戦艦 大和(2代)型について
 日本人なら誰でも知っている戦艦「大和」型は日本海軍が軍縮条約脱退後に初めて建造した戦艦であり、日本海軍最後の戦艦でもあった。1934年度末に開始された新戦艦建造計画で計画された「A−140」が「大和」の計画符号で、これは日本海軍が計画した140番目の戦艦という意味である。
 計画段階ではタービンとディーゼル機関の併用が考えられていたが、大型艦用のディーゼル機関開発がうまくいかず、タービン機関のみで建造が開始された。戦艦は『対応防御』と呼ばれる考え方で作られており、これは『自艦の主砲で砲撃されても耐えられる防御を施す』というものである。そのため「大和」型は口径46センチという巨大な砲弾を防御できる装甲を施す必要があったのだが、艦全体にそのような装甲を施せばとんでもないほど重量が増加するため、「大和」型では極端な集中防御策が施されることになった。集中防御策とは船体中央部に位置する機関部や弾薬庫といった重要部分にのみ重装甲を施し、その他の船体前後部には軽装甲を施すに留める方法で、完全に防御すれば基準排水量で七万トンは超えていたであろう「大和」型は六万四千トンという重量に抑えられている。
 しかし竣工して戦闘に参加したものの、すでに時代は大艦巨砲から航空機や潜水艦による攻撃へと移り変わってきており、大きな戦果を残すことなく「大和」「武蔵」とも航空機の攻撃により戦没してしまった。
 なお三番艦の「信濃」は建造途中に航空母艦不足を補うため改装され、航空母艦として竣工している。

大和(2代)型戦艦の歴史
「大和(2代)」「大和」=古い国名。現在の奈良県を指す。古くからここには朝廷が
置かれていたため、日本国全体を指す言葉としても使われる。
1937年11月 4日呉工廠にて起工
1940年 8月 8日進水
1941年12月16日竣工
1942年 2月12日連合艦隊旗艦となり、太平洋戦争に参加
       5月29日〜ミッドウェイ作戦に参加
       8月〜トラック島にて待機
1943年 2月11日連合艦隊旗艦を「武蔵」に移す
       5月整備のため呉へ帰投。7月には呉にて改修を実施
       8月改修・整備完了しトラック島へ進出
      12月24トラック島沖にて米潜「スケート」の雷撃を受け損傷
1944年 1月〜修理のため呉へ帰投。損傷修理と併せて2月には対空火器増強を実施
       4月改修完了しマニラへ進出。翌月にはリンガ泊地へ進出
       6月15日〜マリアナ沖海戦に参加
      10月22日〜比島沖海戦に参加。重巡「愛宕」沈没のため第二艦隊旗艦を引き継ぐ
      11月修理・改修のため呉へ帰投
1945年 3月19日呉軍港にて米軍の空襲を受けるが損傷軽微
       4月 6日〜沖縄特攻作戦(天一号作戦)に参加
       4月 7日九州南西沖にて米軍機の攻撃を受け沈没
       8月31日除籍
「武蔵(3代)」「武蔵」=古い国名。現在の東京都・埼玉県全域と神奈川県東部を
指す。江戸時代になって徳川幕府がこの地に開かれ急速に発展した。
1938年 3月29日三菱長崎造船所にて起工
1940年11月 1日進水
1942年 8月 5日竣工
       9月対空火器増強、対空電探の設置改修を実施
1943年 2月12日連合艦隊旗艦となり、太平洋戦争に参加
       7月呉にて対水上電探の設置改修を実施
1944年 3月29日横須賀へ帰投中、パラオ沖にて米潜「タニー」の雷撃を受け損傷
       3月31日連合艦隊旗艦任務を解かれる。損傷修理に際し対空火器増強を実施
       6月15日〜マリアナ沖海戦に参加
      10月22日〜レイテ湾突入(捷一号作戦)に参加のためブルネイを出撃
      10月24日比島沖海戦に参加。シブヤン海において米軍機の攻撃を受け沈没
1945年 8月31日除籍
「信濃」「信濃」=古い国名。現在の長野県を指す。古くは源氏の支配地であり、
戦国時代には武田信玄・上杉謙信が争奪戦を繰り広げた。
1940年 5月 4日横須賀工廠にて起工
1942年 6月〜空母への改装工事に着手
 以降の戦歴は航空母艦「信濃」の項を参照のこと
「111号艦」一説によると予定艦名は「尾張」。古い国名で現在の愛知県西部を指す。
織田信長が居城を定め、江戸時代には徳川御三家の領地として栄えた。
1940年11月 7日呉工廠にて起工
1942年 3月建造中止が決定。後に解体される


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