戦艦 鎮遠

Battleship "Tin'en"


鎮遠
戦艦「鎮遠」(撮影時期不詳)
スペックデータ
排水量:(常)7,220t ボイラー:円罐・石炭専焼×8基 燃料搭載量:石炭 1000t
全長:91.0m
全幅:18.3m 主機:横置還動型往復蒸気機関(3気筒2段膨張式)×2基、2軸推進
吃水:6.4m
出力:6,200hp
武装(就役時):
20口径30.5cm連装砲2基、40口径15cm単装砲4基、
47mm単装砲10基、37mm単装砲2基、36cm魚雷発射管3門
最大速力:14.5kt
航続距離:10ktで4500浬
乗員定数:407名

同型艦名(1隻)
鎮遠"Tin'en"

戦艦 鎮遠について
 元は清国海軍所属の戦艦「鎮遠」(チェン・ユァン)[Zhen-Yuan]であったが威海衛で日本軍に捕獲され、戦利艦として日本海軍に編入されたもの。
 清国が国威をかけて建造した二大甲鉄戦艦「定遠」(ティン・ユァン)[Ding-Yuan]と「鎮遠」は、ドイツ帝国海軍の新鋭装甲艦「ザクセン」[Sachsen](1877年竣工)の設計を元にした小型版とも言える艦で、竣工当時は東洋最強戦艦であると言われていた。
 日本海軍は、この仮想敵国の強力な戦艦に対抗できる砲を搭載した戦艦を保有していなかったため、一門だけ大口径砲を搭載した特殊な巡洋艦「松島」型を建造したが、残念ながら黄海海戦において「松島」型の主砲は命中弾を出せず役に立てなかった。その後、威海衛に追い詰められた清国北洋水師の艦隊は明治28年(1895年)2月に降伏、日本海軍に編入後は長崎へ回航され修理が行われた。
 日本海軍編入後は日露戦争にていくつかの海戦に参加しているが、日露戦争終結後まもなく海防艦へ類別変更され、その後除籍・廃艦となっている。

戦艦 鎮遠の歴史
「鎮遠」「鎮遠」=当時の清国海軍北洋水師の艦名銘々の典型で遠き(外国)を鎮める
という意である。漢字名だったため日本海軍編入後も艦名は変更されなかった。
1881年ドイツのフルカン造船所にて清国海軍戦艦「鎮遠」として起工
1882年11月18日進水
1885年竣工。清国へ回航され、清国海軍北洋水師所属となる
1886年 8月長崎寄港時に上陸した水兵が暴動をおこす(長崎清国水兵事件)
1894年清国北洋水師に所属し、日清戦争に参加
       9月17日黄海海戦に参加。日本艦隊の砲撃により損傷を負う
      10月(11月、12月説あり)威海衛の港口で座礁、船底に損傷を負う
応急修理により浸水は防いだが、最大速度は出せなくなった
1895年 1月30日〜日本海軍の威海衛夜襲が開始される
       2月 6日日本海軍水雷艇による威海衛強襲のため旗艦「定遠」が被雷座礁
艦隊司令である丁汝昌(ティン・ルチャン)提督は北洋水師旗艦を「鎮遠」に移す
       2月 9日艦長林泰曽(リン・タイソン)が自決
       2月12日丁提督が連合艦隊伊東長官あてに降伏文書を送る
降伏文書が受け入れられた翌13日に丁提督は自決
       2月17日威海衛を占領した日本軍により鹵獲される
       3月16日戦利艦として日本海軍籍に編入
       7月長崎へ回航され、破損修理。修理完了後は艦隊に編入
1898年 3月21日二等戦艦へ類別される
1904年第三艦隊第五戦隊に所属し、日露戦争に参加
       8月10日黄海海戦に参加
1905年 5月27日〜日本海海戦に参加
      12月11日海防艦へ類別変更
1908年 5月 1日運用術練習艦となる
1911年 4月 1日除籍
      11月24日実艦標的として使用され、装甲巡洋艦「鞍馬」の砲撃により大破
1912年スクラップとして売却。横浜にて解体される


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