敷島型 戦艦

"Sikisima" Class Battleships


初瀬
戦艦「初瀬」(1901年)
三笠
戦艦「三笠」(撮影時期不詳)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
三笠
第8号(2013.05.14)
戦艦「三笠」1902年
敷島
第30号(2014.03.18)
戦艦「敷島」1900年
朝日
第69号(2015.09.15)
戦艦「朝日」1905年

 
スペックデータ
排水量(常):14,850t(敷島)、15,200t(朝日)
        15,000t(初瀬)、15,140t(三笠)
ボイラー:ベルビール罐・石炭専焼×25基 燃料搭載量:石炭 1,722t(敷島)
            1,549t(朝日)
            1,643t(初瀬)
            1,521t(三笠)
全長:133.5m(敷島)、129.6m(朝日)
    134.0m(初瀬)、131.7m(三笠)
全幅:23.0m(敷島)、22.9m(朝日)
    23.1m(初瀬)、22.9m(三笠)
主機:直立型往復動蒸気機関(3気筒3段膨張式)×2基、2軸推進
吃水:8.31m(敷島、朝日)
    8.23m(初瀬)、8.28m(三笠)
出力:14,500hp(敷島、初瀬)
    15,000hp(朝日、三笠)
武装(就役時):
40口径30.5cm連装砲2基、40口径15.2cm単装砲14基、
40口径7.6cm単装砲20基、47mm単装機銃12基、45cm魚雷
発射管5基(敷島、朝日)、45cm魚雷発射管4基(初瀬、三笠)
最大速力:18.0kt
航続距離:10ktで7000浬
乗員定数:836名(三笠のみ859名)

同型艦名(4隻)
敷島"Sikisima"朝日"Asahi"初瀬"Hatuse"三笠"Mikasa"

敷島型戦艦について
 「富士」型の完成により近代戦艦を手に入れることのできた日本海軍であったが、仮想敵であるロシア海軍に比べるとまだまだ戦力不足であった。そこで海軍は戦艦六隻、巡洋艦六隻の六六艦隊計画を海軍力整備の基準と定め、まず第一期拡張計画として「敷島」を、第二期拡張計画として「朝日」「初瀬」「三笠」の三艦を建造することにした。
 「敷島」型は「富士」型に準じた設計であったが、急激に発達する造船技術を取り入れた為に中身は遙かに進化した最新鋭戦艦であった。装甲板にニッケル合金を使用し「富士」型の半分の厚さでありながら遙かに防御力は上回っており、「三笠」に至ってはニッケル合金を改良したクルップ鋼を使用し、さらに防御力を高めていた。また「敷島」型以降の日本戦艦は艦幅の増加によりスエズ運河を航行できなくなり、ロシア海軍はこの戦艦群に対抗できる戦艦をアフリカ南端の喜望峰回りで太平洋まで回航させねばならなくなった点も見逃せない。そのため三国干渉の時のような欧米列強諸国の艦隊による武力威嚇をを抑止することになる効果も持ち合わせており、こうした最新鋭の戦艦はまだイギリス海軍でも保有しておらず、名実ともに当時としては世界最大最新鋭の戦艦であった。
 ボイラーの配置が異なるため、「敷島」「初瀬」と「朝日」「三笠」で煙突の数が異なっている。罐の種類や数は同一であったが、「敷島」「初瀬」は「朝日」「三笠」よりも若干出力で劣っていた(ただし、速力は全艦とも同じであった)。
 四隻とも日露戦争に参加し日本艦隊の中核として活躍が期待されたが、「初瀬」は明治37年5月に旅順港外で触雷し沈没したため、ほとんど活躍できなかった。また「初瀬」沈没と同日に戦艦「八島」も触雷沈没しており、日本海軍は六隻あった戦艦のうち二隻を一日で喪ってしまう大打撃を受けている。
 沈没した「初瀬」以外の姉妹艦は日露戦争の後も第一次大戦やシベリア出兵などに参加し、ワシントン海軍条約締結後は「三笠」は記念艦として保存され、「敷島」「朝日」は練習艦へ類別変更されている。

敷島型戦艦の歴史
「敷島」「敷島」=日本の美称の一つ。和歌では「やまと」の枕詞として
使用され、和歌を「敷島の道」と称することもある。
1897年 3月29日イギリスのテムズ鉄工造船社にて起工
1898年11月 1日進水
1900年 1月26日竣工。日本へ回航され4月17日呉へ到着
1904年第一艦隊第一戦隊に所属し、日露戦争に参加
       8月10日黄海海戦に参加
1905年 5月27日日本海海戦に参加
1916年 7月艦内爆発事故により損傷を負う(翌年8月にも同様の事故をおこす)
1920年シベリア出兵に参加。沿海州の沿岸警備などに従事
1921年 9月 1日一等海防艦に類別
1923年 4月 1日兵装を撤去され、練習特務艦に類別
1925年〜佐世保に繋留され、練習任務や応急対策の実験などに従事
1945年11月 1日除籍。47年解体
「朝日」「朝日」=朝に昇る太陽のこと。この艦名は本居宣長の歌「敷島の
大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」から取ったと思われる。
1897年 8月18日イギリスのジョン・ブラウン社にて起工
1899年 3月13日進水
1900年 7月31日竣工。日本へ回航され10月23日横須賀へ到着
1904年第一艦隊第一戦隊に所属し、日露戦争に参加
       8月10日黄海海戦に参加
1905年 5月27日日本海海戦に参加
1918年第三艦隊第五戦隊に所属し、第一次世界大戦に参加
ウラジオストック方面の警備任務などに従事
1921年 9月 1日一等海防艦に類別
1923年 4月 1日兵装を撤去され、練習特務艦に類別
1925年潜水艦救難設備を搭載
1928年試製水上機射出機を搭載。日本初の射出実験を実施
1938年 8月16日工作艦への改修を行い、工作艦に類別
1940年11月連合艦隊付となる
1941年12月〜太平洋戦争に参加。第二艦隊に所属しカムラン湾へ進出
1942年 3月シンガポールに進出
       5月26日南シナ海で米潜水艦「サーモン」の雷撃により沈没
       6月15日除籍
「初瀬」「初瀬」=奈良県を源流とし、大和川にそそぐ初瀬川から取った。
河川名のついた戦艦はこれ1隻である。
1898年 1月10日イギリスのアームストロング社にて起工
1899年 6月27日進水
1901年 1月18日竣工。日本へ回航され4月15日横須賀へ到着
1904年第一艦隊第一戦隊に所属し、日露戦争に参加
       2月 9日〜旅順港閉塞作戦に参加
       5月15日旅順港沖で触雷。沈没
1905年 5月21日除籍
「三笠」「三笠」=奈良の正倉院北側にある若草山の別名、三笠山から取った。
標高342mと小柄だが毎年1月15日の山焼きは全国的に有名である。
1899年 8月10日イギリスのヴィッカース社にて起工
1900年11月 8日進水
1902年 3月 1日竣工。日本へ回航され5月18日横須賀へ到着
1904年第一艦隊第一戦隊に所属し、日露戦争に参加
       8月10日黄海海戦に参加
1905年 5月27日日本海海戦に参加
       9月11日佐世保港内にて後部弾薬庫の爆発事故をおこし沈没
1906年 8月 8日引き揚げを実施。その後、佐世保工廠にて復旧作業開始
1908年 4月24日復旧作業終了。第一線に復帰
1914年第一次世界大戦に参加
1918年シベリア出兵に参加
1921年 9月 1日一等海防艦に類別
       9月16日ウラジオストク沖にて座礁。引き揚げ後ウラジオストクにて応急修理
1923年ワシントン海軍条約の保有制限により廃艦が決定
       9月 1日関東大震災で被害を受け浸水着底
       9月20日除籍。保存工事に着手
1926年11月12日横須賀に記念艦として完成
1945年終戦時、進駐軍(米軍)に接収され、一時は米兵向けキャバレーなどに改装されるが、
その後は敗戦後の物資不足による資材のはぎ取りにあい荒廃する
1959年〜復元工事を実施。61年5月工事完了。現在も記念艦として展示されている


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