相模型 戦艦

"Sagami" Class Battleships
("Пересвет"[Peresvet] and "Победа"[Pobeda])



相模

周防
(上段)戦艦「相模」(撮影時期不詳)/(下段)戦艦「周防」(1908年)
スペックデータ(【 】内は「周防」のもの)
排水量:(常)12,674t
     【(常)12,970t】
ボイラー:ベルビール罐・石炭専焼×30基 燃料搭載量:石炭 2058t
全長:125.3m
全幅:21.9m 主機:直立型往復動蒸気機関(3気筒3段膨張式)×3基、3軸推進
吃水:7.82m
出力:14,500hp
武装(就役時):
45口径25cm連装砲2基、45口径15cm単装砲10基、
40口径7.5cm単装砲16基、47mm単装砲20基、
45cm魚雷発射管4門【同2門】
最大速力:19.1kt【18.6kt】
航続距離:10ktで10000浬
乗員定数:787名【791名】

同型艦名(2隻)
相模"Sagami"周防"Suou"[Suô]

相模型戦艦について
 元はロシア太平洋艦隊(第一太平洋艦隊)所属のペレスウェート型戦艦「ペレスウェート」とその姉妹艦「ポビエダ」であったが、日露戦争時に旅順港内へ停泊していたところを日本軍の攻撃にあって大破着底、日本軍に捕獲され修理の後戦艦「相模」「周防」として日本海軍に編入となった。なお、もう一隻の姉妹艦である「オスラビア」[Ослябя(Oslyabya)]は、第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)に所属し、遠路バルト海から進出してきたが、日本海海戦で戦没している。
 主砲の口径を小さくし装甲もそれに見合うよう軽量化されており、防御力よりも速度を高めた高速戦艦のはしりとも言える艦であった。ただし主砲が25センチ口径砲だったため、30センチ前後の口径が主流だった他の戦艦に比べて攻撃力に劣り、能力的には装甲巡洋艦に近いとする説もある。
 「相模」は第一次大戦が始まり、今度は連合国側として一緒に戦う事となったロシアへ1916年に返還されたが、その後地中海でドイツ軍潜水艦が敷設した機雷により沈没した。「周防」はそのまま日本海軍に留まり、第一次大戦では青島攻略や中国沿岸部での警備任務などに従事したが、ワシントン海軍条約締結により1922年に除籍、後に解体処分されている。

相模型戦艦の歴史
「相模」「相模」=古い国名。現在の神奈川県の大部分を指した。大化改新の
際に相武国と師長国を合併して制定された国である。
1895年11月21日サンクトペテルブルクのサンクトペテルブルク造船所にて起工
1898年 5月19日進水
1901年 6月竣工
1904年ロシア太平洋艦隊に所属し、日露戦争に参加
       8月10日黄海海戦に参加
      12月 7日203高地を奪取した日本軍の砲撃により旅順港内で大破着底
1905年 1月 1日旅順陥落の際に日本軍に捕獲される
       5月〜浮揚作業実施
       8月22日日本海軍籍に編入され、一等戦艦「相模」となる
1906年横須賀工廠にて修理を実施(翌年10月修理完了)
1912年 8月28日一等海防艦へ類別変更
1916年 4月 4日除籍。ロシアへ返還され艦名を「ペレスウェート」へ戻す
       5月ウラジオストク港外で座礁。同年7月日本海軍により浮揚される
       8月舞鶴工廠にて修理実施。完了後、再度ロシアへ引き渡し
1917年 1月 4日白海へ回航中、ポートサイド(エジプト:スエズ運河北方の都市)沖にて触雷沈没
「周防」「周防」=古い国名。現在の山口県東部。南北朝以後は大内氏が領有
したが戦国時代に毛利元就に滅ぼされ以後毛利氏の領地となった。
1898年 8月 1日サンクトペテルブルクのバルト造船所(後のバルチック工廠)にて起工
1900年 5月24日進水
1902年 7月31日竣工
1904年ロシア太平洋艦隊に所属し、日露戦争に参加
       8月10日黄海海戦に参加
      12月 9日203高地を奪取した日本軍の砲撃により旅順港内で大破着底
1905年 1月 1日旅順陥落の際に日本軍に捕獲される
       9月〜浮揚作業実施
      10月25日日本海軍籍に編入され、一等戦艦「周防」となる
1906年 5月〜横須賀工廠にて修理を実施(1908年10月修理完了)
1912年 8月28日一等海防艦へ類別変更
1914年10月〜第二艦隊旗艦として青島攻略に参加
1917年〜砲術練習艦となる
1922年 4月 1日除籍。後に解体処分


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