河内(2代)型 戦艦

"Kawati(2)" Class Battleships


河内

摂津
(上段)戦艦「河内」(1913年)/(下段)戦艦「摂津」(1911年頃)
スペックデータ(【 】内は「摂津」のもの)
排水量:(常)20,823t
    【(常)21,443t】
ボイラー:宮原罐・石炭重油混焼×16基 燃料搭載量:石炭 2300t
        重油  400t
全長:152.4m
全幅:25.7m【25.6m】 主機:カーチス式直結型タービン×2基、2軸推進
吃水:8.23m【8.27m】
出力:25,000hp
武装(就役時):
50口径30.5cm連装砲2基、45口径30.5cm連装砲4基、
45口径15cm単装砲10基、40口径12cm単装砲8基、
40口径7.5cm単装砲16基、45cm魚雷発射管5門
最大速力:20.0kt
航続距離:不明
乗員定数:999名【986名】

同型艦名(2隻)
河内(2代)"Kawati(2)"摂津(2代)"Settu(2)"

河内(2代)型戦艦について

 イギリスの戦艦「ドレッドノート」[Dreadnought]が完成し、世界各国の戦艦はド級艦へと移り変わっていく中で日本海軍も列強に遅れを取るまいと建造したド級艦がこの「河内」型である。
 「河内」型は50口径の主砲を艦の前後に配置し、45口径の主砲を舷側に二基ずつ配置することによって前方及び後方に向けて六門、舷側方向には八門の主砲を向けることができるようになっているが、これは砲塔が一基少ない「ドレッドノート」が向けることのできる砲数と同じであり、若干イギリス艦より設計が古い砲塔配置となってしまっている。なお口径が異なる主砲の配置には砲の同時使用に無理があるという説もあるが、「河内」型は主砲を一斉発射する「一斉撃ち方」を採用する以前の艦であるので、当サイト製作者の考えではあまり問題になり得なかったと想像する。後に砲塔ごとに容量の異なる薬のう(発射用の炸薬を詰めた袋。小銃や拳銃でいう薬莢の部分にあたる)を使用することで、砲の初速をそろえたため統一した射撃管制を行えるようになっている。

 「河内」型はド級戦艦を目指し建造されたものの、結局は「薩摩」型の拡大改良版であり準ド級戦艦からの脱却は果たせなかった。これは、戦艦の国産化を始めたばかりの日本では斬新な設計の艦を建造するよりは従来型の戦艦を建造するほうが安心だったからであろう。なお、上掲写真を見ても判るとおり、艦首の形状が両艦で異なっている。当ページのスペック表では垂線間の全長であるため両艦とも同じであるが、艦の端から端までの全長の場合は、舳先が突き出る形のクリッパー型である「摂津」の方が若干長くなる。

 「河内」は1918年(大正7年)7月に徳山湾で主砲弾薬庫の爆発事故をおこして大破着底した。これにより600名以上の殉職者を出している。海軍では事故の原因を調査したが、放火や砲火薬の劣化など疑ってみたものの明確な原因はつかめず、原因不明のままとなった。着底した「河内」を浮揚させ修理する計画もあったが、サルベージ費用がかかりすぎるとして、そのまま廃艦となっている。
 また「摂津」はワシントン海軍条約の締結により武装を解除し、標的艦へ改造されている。当初は標的を曳航するための艦であったが、1937年に無線操縦装置を取り付け甲板等防御の強化を行ったことで、自身が標的となり訓練用爆弾に耐えることができるようなった。さらに1940年には撤去していた舷側装甲を復活させることで、重巡洋艦などの訓練用砲弾にも耐えられるようになっている。ちなみに無線操縦時は操縦装置を搭載した駆逐艦「矢風」と行動を共にしている。


河内(2代)型戦艦の歴史
「河内」(2代)「河内」=古い国名。現在の大阪府南部を指す。奈良時代に由義宮が置かれ
西の京と呼ばれた。戦国時代には豊臣秀吉が直轄領とした。
1909年 4月 1日横須賀工廠で起工
1910年10月15日進水
1912年 3月31日竣工
1914年10月〜第一艦隊に所属し、第一次世界大戦に参加
1918年 7月12日徳山湾に停泊中、主砲弾薬庫の爆発事故により沈没。着底
      9月21日除籍。後に解体され、船体の一部は人工岩礁として利用される
「摂津」(2代)「摂津」=古い国名。現在の兵庫県南東部及び大阪府北西部を指す。
瀬戸内航路の主要な港を有し交通の要衝として栄えた。
1909年 1月18日呉工廠で起工
1911年 3月30日進水
1912年 7月 1日竣工
1914年10月〜第一艦隊旗艦として、第一次世界大戦に参加
1919年10月28日観艦式の天皇御召艦となる
1923年10月 1日ワシントン条約にもとづき武装を外し、標的艦(標的曳航)に改装される
1937年無線操縦装置を搭載。航空機の爆撃訓練標的として任務に従事
1940年舷側装甲などを強化。艦砲射撃の訓練にも対応するようになった
1945年 7月24日江田島に停泊中、アメリカ軍の航空攻撃を受け大破着底
     11月20日除籍


検索画面に戻るときはブラウザの「戻る」等の機能を使用してください。 LAST UPDATE 2015,01,04(First Up 1998,07,12)