香取(初代)型 戦艦

"Katori(1)" Class Battleships


香取

鹿島
(上段)戦艦「香取」(1921年)/(下段)戦艦「鹿島」(撮影時期不詳)
スペックデータ(【 】内は「鹿島」のもの)
排水量:(常)15,950t
    【(常)16,400t】
ボイラー:ニクローズ罐・石炭専焼×20基 燃料搭載量:石炭 1857t
     (「鹿島」は2007t)
全長:128.0m【129.5m】
全幅:23.8m 主機:直立型往復動蒸気機関(4気筒3段膨張式)×2基、2軸推進
吃水:8.23m【8.12m】
出力:16,600hp【15,800hp】
武装(就役時):
45口径30.5cm連装砲2基、45口径25cm単装砲4基、
45口径15cm単装砲12基、40口径7.5cm単装砲16基、
47mm単装砲3基、45cm魚雷発射管5門
最大速力:18.5kt
航続距離:10ktで10000浬
乗員定数:864名

同型艦名(2隻)
香取(初代)"Katori(1)"鹿島(初代)"Kasima(1)"

香取(初代)型戦艦について
 日露戦争直前に日本海軍が保有していた戦艦は6隻であったが、仮想敵国であるロシアは12隻の戦艦を保有しており、加えて造船所では新鋭艦の建造中であることが判明していた。そこで日本海軍は「三笠」を上回る最新鋭戦艦をイギリスに発注し、当時イギリスで建造中であった「キング・エドワードVII世」を基に建造を開始した。これが「香取」型である。
 この級には中間砲と呼ばれる主砲と副砲の中間口径の砲を火力増強策として搭載し、主砲・副砲も今までのものより砲身を長くして威力を増している。日露戦争開戦直前ということもあり建造をとにかく急ぎたかった日本海軍は一番艦をビッカース社、二番艦をアームストロング社に発注し、基本的な設計は統一したが細かな部分については各造船所に一任するという方法を採ったため、同型艦とは言いながらも船体の大きさや機関出力などが異なる艦となっている。
 しかし、こうまでして建造を急いだが結局は日露戦争には間に合わず、日本へ回航されたときには戦争は終結していた。しかも同時期にイギリス海軍では革新的な戦艦「ドレッドノート」を竣工させており、当クラスは竣工直後には時代遅れの戦艦となっていた。
 だが戦争や事故でその時点の日本海軍の保有戦艦は三隻に減っており、この「香取」型が戦後しばらくは日本海軍の大きな支えとなったのは事実である。

香取(初代)型戦艦の歴史
「香取(初代)」「香取」=下総一の神社である香取神宮(千葉県)から取った。
祭神は経津主神。十三年ごとに行われる神幸祭は日本五大祭の一つ。
1904年 4月27日イギリスのビッカース社で起工
1905年 7月 4日進水
1906年 5月20日竣工。日本へ回航(同年8月15日横須賀到着)
1907年10月12日〜皇太子(後の大正天皇)韓国訪問の際の御召艦となる
1909年 1月11日韓国皇帝崩御のため釜山に派遣される
1913年11月10日観艦式の天皇御召艦となる
1914年 9月19日〜第一次世界大戦勃発のため南洋群島警備にあたる
1918年 8月22日〜第三艦隊旗艦としてシベリア出兵に参加
1921年 3月 3日〜皇太子(後の昭和天皇)御召艦としてヨーロッパ歴訪
1922年 4月武装を撤去する
1923年 9月20日ワシントン条約にもとづき廃艦・除籍。後に解体
「鹿島(初代)」「鹿島」=香取神宮と同じく武神を祭った鹿島神宮(茨城県)から取った。
祭神は建御雷神。やはり十三年ごとの神幸祭は日本五大祭の一つである。
1904年 2月29日イギリスのアームストロング社で起工
1905年 3月22日進水
1906年 5月23日竣工。日本へ回航(同年8月4日横須賀到着)
1907年 9月16日広島湾にて砲術訓練中に右舷副砲の暴発事故をおこす(34名殉職)
1918年 8月22日〜第五戦隊旗艦としてシベリア出兵に参加
1921年 3月 3日〜皇太子(後の昭和天皇)随行艦としてヨーロッパ歴訪
1922年 4月武装を撤去する。主砲は東京湾および対馬海峡の要塞砲として転用
1923年 9月20日ワシントン条約にもとづき廃艦・除籍。後に解体


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