戦艦 扶桑(初代)

Battleship "Husou(1)"


扶桑

扶桑
戦艦「扶桑(初代)」((上段)竣工直後:1878年頃/(下段)近代化改修後:1900年)
スペックデータ(竣工時:性能は機走時の数値。【 】内は近代改修後のデータ)
排水量:(常)3,713t ボイラー:円罐・石炭専焼×4基
     【円罐・石炭専焼×8基】
燃料搭載量:石炭250t【360t】
全長:(水)67.1m
全幅:14.6m 主機:横置トランク型蒸気機関(2気筒2段膨張式)×2基、2軸推進
    【横置式往復動蒸気機関(3気筒3段膨張式)×2基、2軸推進】
吃水:5.5m
出力:3,500hp
武装:
20口径24cm単装砲4基、25口径17cm単装砲2基、47mm単装砲6基、36cm魚雷
発射管2門、【(1900年時)20口径24cm単装砲4基、40口径15.2cm単装砲2基、
40口径12cm単装砲4基、47mm単装砲10基、25mm4連装砲4基、11mm5連
装砲4基、45cm魚雷発射管2門】
最大速力:13.0kt
航続距離:10ktで4500浬
乗員定数:377名

同型艦名(1隻)
扶桑(初代)"Husou(1)"[Husô(1)]

戦艦「扶桑」について
 明治になって日本海軍が誕生したときに保有していた装甲艦は旧幕府がアメリカから購入した「東」のみで、しかもこれは木造船の上に鉄板を張っただけのものであり、諸外国の主力艦と比べてとても小型であった。海軍はなんとかして近代戦艦を入手したいと考えていたが、資金不足からなかなか発注ができず、西南戦争などの内戦が終わり政府の目が外国に向き始めた明治8年(1875年)になってやっとイギリスに発注した戦艦がこの「扶桑」である。
 全金属製の船体を持ち、3700トンと小型ながら日本初の近代的戦艦として期待も大きく、日本に回航されたときには明治天皇以下、政府の重鎮が勢揃いして迎え入れたほどであった。
 完成当初は3本マストで遠距離の航行は帆走に頼っていたが、戦闘時にマストや帆に被弾すると火災が起きる可能性があるため、蒸気機関の発達に伴い近代化改装が行われ完全な蒸気船となった。日清戦争終結後の明治30年(1897年)10月29日に伊予浜沖で巡洋艦「松島」と衝突事故を起こし沈没したが、幸いなことに沈没箇所の水深が浅かったので、翌年引き揚げ・修理され軍籍に復帰している。明治31年(1898年)に軍艦の艦種(類別)が制定された時に二等戦艦に類別された。
 また日露戦争にも参加したが、老朽化には勝てず終戦後の明治38年(1905年)12月に海防艦へ類別変更となり、明治41年(1908年)4月には日本海軍軍艦の艦籍から除籍され、後に解体処分となった。

戦艦 扶桑(初代)の歴史
「扶桑」「扶桑」=我が国の美称のひとつ。語源は中国の伝説(東海の日の出づる
ところにある同根から雄木と雌木が生えた神木を扶桑と呼んだ)による。
1875年 9月24日イギリスのサミューダ社で起工
1877年 4月17日進水
1878年 1月竣工、日本へ回航
      6月11日横浜へ到着。甲鉄艦(一等軍艦)に類別
1889年 7月艦隊条例(勅令第百号)発布により常備艦隊所属となる
1893年近代化改修を実施。機帆併用船から蒸気船へ改装
1894年日清戦争に参加
      9月 4日黄海海戦に参加
1895年 2月威海衛攻撃に参加
1897年10月29日伊予沖にて「松島」と衝突事故。沈没
1898年 3月21日二等戦艦に類別される
1898年 6月引き上げに成功。呉にて修理に入る
1900年修理完了。再就役
1904年第三艦隊第七戦隊に所属して日露戦争に参加
1905年 5月27日日本海海戦に参加
1905年12月11日海防艦に類別
1908年 4月 1日除籍


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