扶桑(2代)型 戦艦

"Husou(2)" Class Battleships


山城(竣工時)
戦艦「山城」(1917年)
扶桑
戦艦「扶桑」(1944年)

下記写真はイーグルモス社発行「隔週刊 世界の軍艦コレクション」付属の模型です(クリックで拡大(要Javascript))
扶桑
第21号(2013.11.12)
戦艦「扶桑」1944年
山城
第54号(2015.02.17)
戦艦「山城」1941年

スペックデータ(就役時)
排水量:(常)30,600t ボイラー:宮原罐・石炭重油混焼×24基 燃料搭載量:石炭 5022t
        重油 1026t
全長:(全)205.13m
全幅:28.65m 主機:ブラウン・カーチス式直結型タービン×2基、4軸推進
吃水:8.69m
出力:40,000hp
武装:
45口径36cm連装砲6基、50口径15cm単装砲16基、
40口径7.6cm単装高角砲4基、53cm単装魚雷発射管6門
最大速力:22.5kt
航続距離:14ktで8000浬
乗員定数:1,193名
スペックデータ(最終改装(昭和10年)後:【 】内は「山城」のもの)
排水量:(常)39,154t
 (「山城」は38,383t)
ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×4基、
      ハ号艦本式罐・重油専焼×2基
燃料搭載量:重油 5465t
            【5500t】
全長:(全)212.75m
全幅:33.08m 主機:艦本式オールギヤードタービン×4基、4軸推進
吃水:9.69m
出力:75,000hp
武装:
45口径36cm連装砲6基、50口径15cm単装砲14基、
40口径12.7cm連装高角砲4基、25mm連装機銃8基(後に単装を増設)、
13mm4連装機銃4基、水偵3機搭載(射出機1基)
最大速力:24.7kt【24.5kt】
航続距離:16ktで10,000浬
      【16ktで11,100浬】
乗員定数:1,396名【1,447名】

同型艦名(2隻)
扶桑(2代)"Husou(2)"[Husô(2)]山城"Yamasiro"

扶桑(2代)型戦艦について
 世界各国海軍のド級戦艦時代に乗り遅れた日本海軍は、超ド級戦艦時代には遅れを取らないようにイギリスに巡洋戦艦「金剛」型を発注し超ド級戦艦の建造技術修得を行い、そこで修得した技術を元にして建造されたのがこの「扶桑」型である。
 「金剛」型が45口径36センチ連装砲四基八門に対し、「扶桑」型は同じ36センチ連装砲を六基十二門も搭載し火力を大幅に強化している。しかし六基の砲塔を艦上に一直線に並べたので船体は必然的に長くなり、防御しなければならない部分が増えた。重量を押さえるためには装甲を薄くする他はなく、そのため全体の防御力は低下してしまった。
 「扶桑」型は最初の計画では同型艦四隻を建造することになっていたが、予算不足で二番艦「山城」の着工は二年遅れ、この間に各国戦艦の性能は著しく進化したために「扶桑」型が時代遅れになってしまい、「扶桑」と「山城」の二隻で建造は終了した。なお、この「扶桑」型は世界で初めて排水量が三万トンを超えた戦艦であった。
 新鋭戦艦の性能に追いつくため大改修を受けており、1930年代以降はドック入り期間が長くなり『艦隊に居る方が珍しい』とまで言われるようになった。太平洋戦争開戦時には異様な高さに積み上がった細長い艦橋が一つの特徴といえる艦影となっていたが、やはり速度性能が低いため大きな任務が与えられる事は少なく、訓練任務や輸送支援などに従事することが多かった。
 両艦ともレイテ湾突入(捷一号作戦)に参加し、スリガオ海峡にて沈没している。特に「山城」は米駆逐隊(第24駆逐隊)の雷撃を受けながらも、重巡「最上」と駆逐艦「時雨」を率いて海峡に突入し、優勢な米艦隊(戦艦6、重巡8、駆逐艦9)と交戦、集中砲火を浴びて沈没した。ちなみに、このスリガオ海峡での海戦が、史上最後の戦艦同士による砲撃戦となった。

扶桑(2代)型戦艦の歴史
「扶桑(2代)」「扶桑」=我が国の美称のひとつ。語源は中国の伝説(東海の日の出づる
ところにある同根から雄木と雌木が生えた神木を扶桑と呼んだ)による。
1912年 3月11日呉工廠にて起工
1914年 3月28日進水
1915年11月 8日竣工
1918年第一次大戦に際して、中国沿岸部の哨戒任務に従事
1923年 9月関東大震災発生により被災者救助に従事
1930年 4月〜大改装(第一次大改装)を実施。艦橋の拡大、後部司令塔の拡大、前部煙突の撤去、
装甲の増強、主機強化、射出機設置設置などを実施(33年5月完了)
1934年 9月船体の延長工事を実施(翌年2月完了)
1937年 2月〜第二次大改装を実施。副砲の換装、対空兵装の強化、射撃指揮装置の更新
(41年9月完了)
1941年12月 8日〜連合艦隊主力部隊に所属し、太平洋戦争に参加
真珠湾攻撃を支援するため小笠原諸島まで進出
1942年 4月18日〜東京空襲部隊を発艦させた米艦隊を追撃したが、捕捉できず
       5月29日〜主力艦隊に所属し、ミッドウェイ攻略作戦に参加。アリューシャン攻略を支援
      11月15日〜練習艦として使用される
1943年 6月 8日戦艦「陸奥」の爆発事故に際し、生存者の救難に従事
       8月23日〜トラック島に進出
1944年 2月トラック島放棄によりパラオ経由でリンガ泊地へ移動
       6月渾作戦(ビアク島増援作戦)に参加するも、戦果なくダバオへ撤退
      10月22日〜第二戦隊(西村艦隊)に所属し、比島沖海戦に参加
      10月25日スリガオ海峡にて米駆逐艦隊の雷撃を受け沈没
1945年 8月31日除籍
「山城」「山城」=古い国名。現在の京都府南東部を指す。古くから交通の要衝であり
政治・文化の中心地であった。平安遷都の際山城と名付けられた。
1913年11月20日横須賀工廠にて起工
1915年11月 3日進水
1917年 3月31日竣工
1918年第一次大戦に際して、中国沿岸部の哨戒任務に従事
1922年 3月第二砲塔上に滑走台を設け、陸上機の発艦実験を実施
1923年 9月関東大震災発生により被災者救助に従事
1930年〜大改装を実施。船体の延長、艦橋の拡大、後部司令塔の拡大、前部煙突の撤去、
装甲の増強、主機強化、射出機設置設置などを実施(35年完了)
1941年12月 8日〜連合艦隊主力部隊に所属し、太平洋戦争に参加
1942年 4月18日〜東京空襲部隊を発艦させた艦隊を追撃したが、捕捉できず
       5月29日〜主力艦隊に所属し、ミッドウェイ攻略作戦に参加
       9月15日〜練習艦として使用され、柱島などで訓練任務に従事
1943年 7月〜改装を実施。対空機銃の増設、電探の装備
      10月輸送任務に従事
      11月 5日沖ノ島沖で米潜「ハリバット」の雷撃を受けるも命中せず
1944年 2月〜再度、練習艦として使用される。横須賀にて訓練任務に従事
       9月呉からブルネイへ陸軍部隊の輸送に従事。輸送完了後はリンガ泊地へ移動
      10月22日〜第二戦隊(西村艦隊)に所属し、比島沖海戦に参加
      10月25日スリガオ海峡にて米駆逐艦の雷撃及び米艦隊の砲撃を受け沈没
1945年 8月31日除籍


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